レイライン通信 ~ 光の循環 / amana space からのメッセージ~ ~      

憲法九条は私の仲間たちの死との引き換えだった。

2016年7月10日の参院選を前に、日本が大きな岐路に立とうとしています。

さて、半年間、このことを書きたいと思っていたのですが、やっと書くことにしました。きっかけは3日ほど前に読んでいたSEALDsの奥田愛基さんの手記『変える』の中に、不思議なシンクロニシティを見つけたからです。それは後半に。。。ちょっと長いのですが、よろしければお付き合いください。

昨年2015年12月、「タッチケアと気功」というテーマでのWSで第九回統合医療学会山口に行くことがありました。その時、いろんな興味があって、今回は絶対に山口県「防府」(ほうふ)に立ち寄りたい。そして、防府天満宮に行こう!となぜか心が決まっていました。この日は12月の初旬。空が青く、あたたかで、心地の良い日でした。

天神・菅原道真・御霊会(ごりょうえ)信仰・萩往還。そして幕末の志士高杉晋作が信仰していたということも知り、興味津々。あれほどの神がかり的な人は歴史上めったにいない。その彼が信仰していた天神とは?そんな興味もあって、そして、ちょうど昨年の大河ドラマの最終回の週で、主人公夫婦が晩年を過ごした土地ということも重なり、様々な歴史的好奇心が渦巻く歴女な私の防府訪問。

のんびりとした一人旅でした。ぶら~っと、天満宮の中の敷地を歩いていたとき、この「碑文」と出会ってしまい、”嗚呼”とうなってしまいました。なるほど、この碑文と出会うために、私は防府天満宮のことが気になっていたのかもしれない。

それは、防府海軍通信学校という、戦前防府にあった予科練の少年兵だった方々が、戦後昭和58年に建てた碑文。 その内容は・・・。

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嗚呼、海軍少年電信兵の碑。

碑文

昭和十八年八月、太平洋戦争の戦局、きわめて不利と伝えられし。
国難、真に急を告ぐる時、齢、わずか十四、五歳を中心とする少年たちの多くが、意を決して海軍に、其の身を投じ、防府海軍通信学校に入校す。
翌十九年春、日夜の激しき訓練に耐え、それぞれ艦船に、南方に、或いは大陸や内地の実施部隊に勇躍配属さる。
各戦線とも、想像を絶する大激戦場。
特に、ガタルカナル撤退以降、南方洋はもとより、内外を問わず、戦火は熾烈を極めるなか、史上、最年少の海軍少年電信兵として、勇敢に其の任務を遂行せり。

唯々、残念なるは、祖国の安泰を信じ、護国の華と散りし、六百余命の桜、あるいは、愛する簡単と共に、水漬けく屍、はたまた焦土の異国の丘に草生す屍と化し、再び祖国見えるを得ざるは、痛恨の極みなり。

相別れて40年。
此処、想い出多き縁の聖地、防府天満宮の一隅に、戦争の惨禍と、残されし者の掴みし平和の尊さを、未来永劫、忘却せざるの誓い。
諸兄弟の御魂、安かれとの願いを籠め、ここに鎮魂の碑を建立す。

昭和五十八年十月吉日
旧防府海軍通信学校
第六十八期普通科電信網練習生
有志一同


この碑文から湧き上がる痛恨の想いは、この防府天満宮に祭られている菅原道真の煮えたぎるような痛恨の想いに比してもまだ余りあるものです。防府は、かつての幕末の志士たちが往来し、信仰した街。その街で生まれ育った若者たちが、どれほど、志士たちに憧れ、高杉晋作に憧れ、お国のために勇猛果敢に、国のために戦う美学を胸に抱いて志願していったのか、容易に想像できます。その結果、どれほど夥しい数の若者たちが戦争で無惨に命を奪われていったのか。これは幕末のヒーローたちが作り出した本当に大きな罪です。もっというならば、幕末のヒーローたちをもちあげて、伝説にしていった明治の高官たちの大罪です。



戦争の惨禍と、残されし者の掴みし平和の尊さを、未来永劫、忘却せざるの誓い。

こうした思いを記したこの碑文。防府天満宮に祭られている菅公には十分に届いているでしょうが、道行く人達には見えるような、見えないような、、、、それほどに目立つところには建ってはおりません。


他にもこういう碑文がありました。
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恒久平和を祈念する




この言葉がどれほどに重たいものなのか。
どれほどの犠牲の上に日本人に届けられたのか、大地が揺れて震えるように届いてきました。
そんなことを思いながら半年が過ぎたのですが、昨日。。。

SEALDsの奥田愛基さんの著書「変える」を読んでいたら、またまた震えてきました。

ご存じのように、安保法制に反対するための学生たちのデモのリーダーの青年です。
日本が再び戦争ができる国になってしまわないために、声をあげた若者たち。彼らが声をあげたことで、本当に絶望していた淵から一縷の望みが見えた思いでした。はっきりいって、彼らが登場するまでは、私自身、もうあきらめきっていました。日本は海外に軍隊を出せる国になるのか、、、憲法九条、、、変わっちゃうのかぁ、、。

その奥田愛基さんが2015年の連日のデモの中、終戦記念日の前の日の8月14日、ある新聞への投稿記事を読み上げたそうです。そのことは知ってたのですが、その記事の内容は知りませんでした。その記事の全文が彼の著書「変える」の中で紹介されてました。投稿記事は、2015年7月23日付 朝日新聞。その投稿記事を書いたのは、現在86歳の元予科練生の加藤敦美さんという男性。



安保法制が衆院を通過し、耐えられない思いでいる。
だが、学生さんたちが反対のデモを始めたと知った時、特攻隊を目指す元予科練(海軍飛行予科練習生)だった私は、うれしくて涙を流した。

体の芯から燃える熱で、涙が湯になるようだった。
オーイ、特攻で死んでいった先輩、同僚たち。
「今こそ、俺たちは生き返ったぞ」とむせび泣きしながら叫んだ。

山口県、防府の通信学校で、特攻機が敵艦に突っ込んでいく時の「突入信号音」を傍受し何度も聞いた。人間魚雷の「回天」特攻隊員となった予科練もいた。
私もいずれは死ぬ覚悟だった。

天皇を神とする軍国で、貧しい思考力しかないままに、死ねと命じられて爆弾もろとも敵艦に突っ込んでいった特攻隊員たち。人生には心からの笑いがあり、友情と恋があふれ咲いていることすら知らず、五体爆裂し肉片となって恨み死にした。16歳、18歳、20歳……。

若かった我々が、生まれ変わってデモ隊となって立ち並んでいるように感じた。
学生さんたちに感謝する。
今のあなた方のようにこそ、我々は生きたかったのだ。




書き写すだけで、涙がこみあげてきます。この記事のことは昨年の夏に奥田さんのスピーチの映像で聞いて感動したのを覚えています。でも、ここに「防府の通信学校」とあるのを見つけて、震えました。おそらく、加藤敦美さんは、あの防府天満宮にある、碑を建立した方達のお一人なのです。

奥田愛基さんは、その後、加藤さんのもとを訪れて、すでに耳が遠くなった加藤さんと筆談でやりとりしたそうです。

加藤さんは、予科練の通信網施設で、特攻隊として敵艦に突っ込む戦闘機から送られる、最後の通信を聴く役で、普段は「ツー、ツー、ツー」とある一定の間隔で区切られて信号が送られてくるのですが、突っ込む際は電子キーを最後の最後まで押し続けるそうです。加藤さんはその最後の音を、聞いてこられた方でした。

奥田さんは、加藤さんにたずねました。

「なんで自分たちがそこにいるような、生き返ったような気がしたのですか?」



憲法九条は私の仲間たちの死と引き換えだった。
平和憲法を守るために、私達は何度も特攻の話をした。そして、その中で、何度も私達は死なないといけなかった。

あの時は、善悪の判断を自らすることは許されなかったし、人間が人間として扱われているような気がしなかった。真空の中に閉じ込められているような、余計なことは考えるなと。そういう感じだった。

通信施設で特攻の突っ込む音を聴いている。
最後の最後まで通信音を送ってくる。
そして、音がなくなる ー。
憲法九条を語るために、私たちはずっと、あの時代に真空状態のままでいないといけない気がした。

しかし、君たちは、自分たちの日常に憲法を見ている。それが嬉しかった。

70年たって、やっと、私たちがこの憲法に生きて、刻み付けられた気がした。







戦後七十年間、”真空状態”のままで死とともに、平和を語ってこられた加藤さん。
SEALDsの若者たちの平和を守るために行動する姿を見て、70年の時を超えて解き放たれたというのです。ああ、なんという、戦後70年なのでしょうか。。。
私は、安倍首相の戦後70年談話を聞いて、ひどく落胆したのですが、国会の前ではこんなことが起こっていたのですね。
ほんとうに、長く長くかかり、最後のギリギリに、戦争を体験された方々に間に合って本当によかった。

そして、もうひとつ。
なんということでしょうか。。。



この防府通信学校の予科練生だった加藤さんは、「70年たって、やっと、私たちがこの憲法に生きて、刻みつけられた気がした」とおっしゃってるのに、今、自民党は、その憲法を無惨に変えてしまおうとしています。

70年もかけて、ようやく、私達は、日本国憲法 そして、憲法第九条の貴い意味を理解し、受け取ろうとしているのにもかかわらず。

この憲法は、本当に多くの戦前の、無惨な死をとげた、国の内外の戦争の犠牲者の方の上に成り立っているのです。そして、戦後70年、一度も日本人が戦争で死なずにこれたのは、この憲法九条があったからことです。

7月10日の参院選挙。
自民公明党が参議院議員の三分の二をとれば、憲法改悪が発議されます。
自民党の憲法改悪案は、最低の内容です。
九条を守るため
そして、基本的人権・立憲主義をもう一度深く理解し受け取るため、どうか、神様私達にチャンスをください



追記₍歴女のつぶやき)
この防府天満宮は、京都の北野天満宮、福岡の大宰府天満宮と並び称される日本三大天満宮のひとつです。天満宮とは、平安時代の実力ひとつで下級貴族から天皇の側近となり政治の頂点に達した菅原道真の御魂をまつる神社のこと。藤原家の諫言により大宰府に左遷。ここ防府天満宮は、菅原氏の一族の縁のある土地で、菅公が宇多天皇から呼び戻されるのではないかと、最後まで執着した地です。
菅公が、大宰府で病死したのちに、都では天変地異や疫病が。彼を左遷させた藤原氏たちも病死。これは菅原道真の祟りだと言われたものです。そこで、恨みをもったまま亡くなった人の魂を癒し、神としてまつるという「御霊会」の信仰が深まりました。日本の文化や精神性には、この「御霊会」が色深く影響しています。日本全国の天神は、菅原道真の縁の地でもあるますが、あるいは、何か恨みをもって亡くなった人の魂を鎮める御霊会としてまつられた場合もあります。

菅公、菅原道真は、幕末、長州志士たちのヒーローだったようで、特に、高杉晋作はかなりの菅公ファンで、天神信仰をもっていたと言われています。防府天満宮は、八月十八日の政変で都から追放された長州志士たちの心の支えでもあったのでしょう。
ところで、高杉晋作は身分制度を超えて国を守るという奇兵隊を組織したので有名です。身分制度を超えて、、、とはいえ、実際には農民たちに近代兵器をもたせた部隊。戦うのは農民で、武士は司令官。戦死者も夥しくいました。高杉晋作は、その戦士した奇兵隊員たちを、神としてまつるための「招魂社」を山口に設立しました。その後、戊辰戦争の戦死者たちは、新しい国家に仕えたとして、神として神社に祭るようになったのです。これが、靖国神社の始まりですね。その後、明治政府は国家のために亡くなった戦死者を靖国神社に祭るようになりました。この靖国神社そのものが、やはり「御霊会」信仰によるものなのでしょう。途方もない数の若者たちが、国家のために命を奪われていったのです。なんと、痛ましいことでしょうか。。。これが戦前国家です。その若者たちが、御霊会によって魂が浄化し、「平和」をもたらす神として、地上に降り立ったのが、あの九条なのでは?と思えてなりません。。。

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by reiko-koyago | 2016-06-27 16:40

amana space &NPO法人タッチケア支援センター代表の中川れい子(旧:こやごれーこ)メッセージブログです。お問い合わせは mail@amanaspace.com 。 HP http://www.amanaspace.com/ http://touchcaresupport.com/
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