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「実は明治憲法は、緊急事態規定の"宝庫”でした」

7月10日の参院選の争点は「改憲
参院で与党が3分の2議席獲得すれば、改憲の発議ができるということで、多くの方の関心が寄せられつつあります。
自民党の現在の『改憲』法案で最も問題視されているのは「緊急事態条項」(国家緊急権)の導入。ここは、要注目ですね。

昔の仕事から(予備校日本史講師)、この「緊急事態条項」という言葉を聞くと、どうしても明治憲法(大日本国憲法)の「緊急勅令」や「戒厳令」が連想されてしまいます。とはいえ、マスコミでは、明治憲法と今回の自民党の改憲案の比較はあまりされていないようですね。おそらく、戦前の「緊急勅令」は、名目上、天皇の勅令という形をとっていたので、戦後の今も、それを話題にするのは、タブー視されているのかもしれません。でも、歴史は正しく見ていきたいものです。

おそらく、特定秘密保護法や集団的自衛権(安保関連法案)以上に、危険すぎるのがこの「緊急事態条項」。 自民党は、震災等の非常時の際に、、、といいますが、憲法学者のほとんどが、震災時の対策は一般法制で十分。何も憲法に入れることではないと言います。なぜ、自民党は、わざわざ憲法にその条文を入れたいのか??この条文だけで、現行憲法の基本的人権も議会主義もすべてを骨抜きできるという伝家の宝刀であると同時に、それを実際に乱用して独裁に成功していた時代への回帰と復古主義、、、最近の政府の動向を見ていると、ますますそういう連想をしてしまいます。


さて、先週の『赤旗』に「明治憲法と自民改憲案」というタイトルで、一橋大学名誉教授 渡辺治さん(憲法学)へのインタビューの連載記事がありました。非常にわかりやすかったので、部分的に引用して、まとめてみました。『赤旗』とはいえ、ここに書かれている内容は大学入試問題にも出るぐらいの、一般的なものばかりで、渡辺教授、とてもわかりやすく解説されています。


******

明治憲法と自民改憲案  
  「緊急事態」条項 上中下
  一橋大学名誉教授  渡辺治さんに聞く


途中、、、略

<大震災を口実に>

3.11の東日本大震災などを口実にして、自民党と改憲勢力は「緊急事態」条項の導入をいってますが、現行憲法にこの規定が入らなかった理由を振り返る必要があります。

緊急事態規定の危険性は、ナチスドイツの台頭を手助けした例などで指摘されていますが、明治憲法下の日本ほど、緊急事態規定の乱用の危険性を示している国はありませんでした。

実は明治憲法は、緊急事態規定の"宝庫”でした。

(当時の)天皇制の政府は、戦時、大震災、非常時を口実に、この規定を乱発し議会を通さずに国民の自由を奪い、ついには日本を戦争への道に引きずり込んだのです。その反省から、日本国憲法はあえてこの規定を入れなかったのです。

明治憲法は、絶対君主制下にあったドイツのプロイセンや他のラント(州)の憲法をまねて作られたのですが、天皇制を守るために、そこにあった各種の緊急権をすべてとりいれた結果、二重三重の緊急権をもった特異な憲法になりました。

数えてみると、少なくとも明治・大正で70件、昭和には10件、国家緊急権条項が発動されています。


<乱用された8条>

明治憲法には、4つの緊急事態規定がありました。
もっとも乱用されたのが、第八条の「緊急勅令」です。
(注;天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス(第八条))

これは「公共の安全を保持し、またはその災厄を避くるため、緊急の必要により、帝国議会閉会の場合において、法律に代えるべき勅令を発す」というもので、これを使えば、天皇制政府は「公共の安全」のために緊急に必要だと判断したら、議会を通さずに、人民の自由を制限する命令を出すことができました。

同様に、第70条は、緊急時には政府が議会にはからずに「財政上必要な処分」ができる、つまり、財政出動したり税金をかけたりできるという規定です。財政を議会にはかることは近代市民革命の一番の原則ですが、それを天皇の命令で破れるというとんでもない規定です。
(注:公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ処分ヲ為スコトヲ得)

第14条は「戒厳大権」です。これは、戦時、非常時のとき、軍の統帥権をもつ天皇が「戒厳を宣告」して軍事独裁を敷くこごあできる規定です。軍事独裁の下であらゆる市民の自由は禁圧されます。
(注: 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス)

第31条は「非常大権」で、政府が危機に陥ったときには、天皇が憲法を停止できるというものです。
(本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ)



<独裁への武器に>

簡単に言うと、8条・70条は政府の独裁を、14条は軍部の独裁を、31条は天皇の独裁を認めるもので、これら規定は議会の攻撃から政府を守る、何重もの防壁となっただけでなく、独裁政治をつくる便利な武器となったのです。

とくに、政府が緊急事態と認定したら議会にはからず、政府の命令で人民の自由を弾圧し人権を抑圧できるという8条の緊急勅令は、政府には使い勝手がいいことから、国家緊急権の核心になりました。

問題は、現在の自民党改憲草案の緊急事態の規定の中には、緊急事態の宣言を発したら政府は「法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」「財政上必要な支出その他の処分を」行えるという形で、明治憲法の8条と70条が盛り込まれているということです。
自民党は、戦前の明治憲法でどこが重要なのかを承知しているのです。

<実際にどんなときに、緊急勅令が使われたのか?>

青年将校によるクーデター事件である2.26事件(1936年)は、その後の軍部独裁のてこになりましたが、この時、政府は、8条を使い戒厳令を発動して、東京を軍事独裁下に置き、一切の言論・政治活動を禁圧しました。

大災害を口実にして人民への弾圧をおこなった例は、1923年9月1日の関東大震災です。
「3.11のような大震災には緊急事態規定がないとたいへんだ」という自民党や改憲派の言い分がいかに嘘であるかが経過からよくわかります。

関東大震災の翌2日、8条により東京地裁に戒厳令が発動され戒厳司令官のもとで、軍事独裁が敷かれました。
戒厳令の下、命令で治安維持令が出され、「暴動」が起きるかもしれないという口実で大勢の朝鮮人が虐殺されました。
.....16日には、大杉栄と伊藤野枝も虐殺されました。軍事独裁下だからこそできた虐殺でした。

(注意 治安維持令 1923年9月7日に緊急勅令(大正12年勅令第403条)にて公布された治安維持のための法令。正式名称は「治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件」。関東大震災下の混乱を収めることを名目に震災発生の6日後に緊急勅令で公布、即日施行され、次の第47議会で承認された。「出版通信其ノ他何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハス暴行騒擾其ノ他生命身体若ハ財産ニ危害ヲ及ホスヘキ犯罪ヲ煽動シ安寧秩序ヲ紊乱スル目的ヲ以テ治安ヲ害スル事項ヲ流布シ又ハ人心ヲ惑乱スル目的ヲ以テ流言浮説ヲナシタル者ハ十年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ三千円以下ノ罰金ニ処ス」とし、表面上は震災後に発生した諸事件に対する対応を目的としていたが、実際にはこれに乗じて社会主義者を弾圧することを意図しており、後の治安維持法の先駆となった。1925年4月22日の治安維持法公布とともに廃止された。なお、この間の1年半余りで20件の適用があった)

<議会が反対しても>

また緊急勅令は、政府が議会や国民の反対する悪法を通すためにも使われました。
1928年の治安維持法改悪(注 治安維持法は1925年に制定)がそれです。

治安維持法(1925年制定)は「国体の変革」、つまり戦前の絶対的天皇制の民主的な改革などをめざす結社をつくったり加入したりすること自体を重罰に処す、つまりは共産党に入るだけで処罰する悪法でした。政府は1928年の3.15事件で日本共産党に対してこの法を発動しましたが、その直後に、より弾圧を強化するために大改悪に乗り出したのです。

この改悪は、共産党の幹部に対し最高刑を死刑にしたこと、また党員でなくてもその「目的遂行のためにする行為」を行った人の懲役にするとして、労働組合や民主団体に弾圧の手を広げるものでした。

ところが、この改悪案(最高刑を死刑)は、当時の帝国議会でも反対が多く、議会でも否決されました。しかし政府は議会が閉会したとたん、緊急勅令で改悪を強行したのです。8条がいかに乱用されるかの典型です。

後略


(注:治安維持法 1925年、普通選挙法の制定(納税額による選挙権の制限がない)と同じ年に、「アメとムチ」として政府の法令として出された思想弾圧法令。「国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された。当初は、世界的に激化した共産主義運動の激化を懸念して制定されたが、やがて宗教団体や右翼活動、自由主義等、政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となった。(「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」)

1928年。治安維持法改悪 緊急勅令により、議会の承認を経ずに「最高刑は死刑に」(田中儀一内閣)
1941年。予防拘禁制に改悪 刑期が終了しても思想を変えない場合は再犯の恐れがあるということで引き続き拘禁された。
1945年 10月、治安維持法廃止 





まぁ、これ以外の部分でも、ほんと、滅茶苦茶な憲法だったのですが。。。
明治憲法を読むたびに、現行の「日本国憲法」の美しさを実感しますね。
これを、みっともない憲法だって唱えているのが、今の総理大臣。。。
前の憲法のほうが、良かったって本気で考えてるのかもしれません。
ふるえてしまいます。。。




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# by reiko-koyago | 2016-07-05 16:36

憲法九条は私の仲間たちの死との引き換えだった。

2016年7月10日の参院選を前に、日本が大きな岐路に立とうとしています。

さて、半年間、このことを書きたいと思っていたのですが、やっと書くことにしました。きっかけは3日ほど前に読んでいたSEALDsの奥田愛基さんの手記『変える』の中に、不思議なシンクロニシティを見つけたからです。それは後半に。。。ちょっと長いのですが、よろしければお付き合いください。

昨年2015年12月、「タッチケアと気功」というテーマでのWSで第九回統合医療学会山口に行くことがありました。その時、いろんな興味があって、今回は絶対に山口県「防府」(ほうふ)に立ち寄りたい。そして、防府天満宮に行こう!となぜか心が決まっていました。この日は12月の初旬。空が青く、あたたかで、心地の良い日でした。

天神・菅原道真・御霊会(ごりょうえ)信仰・萩往還。そして幕末の志士高杉晋作が信仰していたということも知り、興味津々。あれほどの神がかり的な人は歴史上めったにいない。その彼が信仰していた天神とは?そんな興味もあって、そして、ちょうど昨年の大河ドラマの最終回の週で、主人公夫婦が晩年を過ごした土地ということも重なり、様々な歴史的好奇心が渦巻く歴女な私の防府訪問。

のんびりとした一人旅でした。ぶら~っと、天満宮の中の敷地を歩いていたとき、この「碑文」と出会ってしまい、”嗚呼”とうなってしまいました。なるほど、この碑文と出会うために、私は防府天満宮のことが気になっていたのかもしれない。

それは、防府海軍通信学校という、戦前防府にあった予科練の少年兵だった方々が、戦後昭和58年に建てた碑文。 その内容は・・・。

憲法九条は私の仲間たちの死との引き換えだった。_a0020162_1639594.jpg


嗚呼、海軍少年電信兵の碑。

碑文

昭和十八年八月、太平洋戦争の戦局、きわめて不利と伝えられし。
国難、真に急を告ぐる時、齢、わずか十四、五歳を中心とする少年たちの多くが、意を決して海軍に、其の身を投じ、防府海軍通信学校に入校す。
翌十九年春、日夜の激しき訓練に耐え、それぞれ艦船に、南方に、或いは大陸や内地の実施部隊に勇躍配属さる。
各戦線とも、想像を絶する大激戦場。
特に、ガタルカナル撤退以降、南方洋はもとより、内外を問わず、戦火は熾烈を極めるなか、史上、最年少の海軍少年電信兵として、勇敢に其の任務を遂行せり。

唯々、残念なるは、祖国の安泰を信じ、護国の華と散りし、六百余命の桜、あるいは、愛する簡単と共に、水漬けく屍、はたまた焦土の異国の丘に草生す屍と化し、再び祖国見えるを得ざるは、痛恨の極みなり。

相別れて40年。
此処、想い出多き縁の聖地、防府天満宮の一隅に、戦争の惨禍と、残されし者の掴みし平和の尊さを、未来永劫、忘却せざるの誓い。
諸兄弟の御魂、安かれとの願いを籠め、ここに鎮魂の碑を建立す。

昭和五十八年十月吉日
旧防府海軍通信学校
第六十八期普通科電信網練習生
有志一同


この碑文から湧き上がる痛恨の想いは、この防府天満宮に祭られている菅原道真の煮えたぎるような痛恨の想いに比してもまだ余りあるものです。防府は、かつての幕末の志士たちが往来し、信仰した街。その街で生まれ育った若者たちが、どれほど、志士たちに憧れ、高杉晋作に憧れ、お国のために勇猛果敢に、国のために戦う美学を胸に抱いて志願していったのか、容易に想像できます。その結果、どれほど夥しい数の若者たちが戦争で無惨に命を奪われていったのか。これは幕末のヒーローたちが作り出した本当に大きな罪です。もっというならば、幕末のヒーローたちをもちあげて、伝説にしていった明治の高官たちの大罪です。



戦争の惨禍と、残されし者の掴みし平和の尊さを、未来永劫、忘却せざるの誓い。

こうした思いを記したこの碑文。防府天満宮に祭られている菅公には十分に届いているでしょうが、道行く人達には見えるような、見えないような、、、、それほどに目立つところには建ってはおりません。


他にもこういう碑文がありました。
憲法九条は私の仲間たちの死との引き換えだった。_a0020162_16421722.jpg




恒久平和を祈念する




この言葉がどれほどに重たいものなのか。
どれほどの犠牲の上に日本人に届けられたのか、大地が揺れて震えるように届いてきました。
そんなことを思いながら半年が過ぎたのですが、昨日。。。

SEALDsの奥田愛基さんの著書「変える」を読んでいたら、またまた震えてきました。

ご存じのように、安保法制に反対するための学生たちのデモのリーダーの青年です。
日本が再び戦争ができる国になってしまわないために、声をあげた若者たち。彼らが声をあげたことで、本当に絶望していた淵から一縷の望みが見えた思いでした。はっきりいって、彼らが登場するまでは、私自身、もうあきらめきっていました。日本は海外に軍隊を出せる国になるのか、、、憲法九条、、、変わっちゃうのかぁ、、。

その奥田愛基さんが2015年の連日のデモの中、終戦記念日の前の日の8月14日、ある新聞への投稿記事を読み上げたそうです。そのことは知ってたのですが、その記事の内容は知りませんでした。その記事の全文が彼の著書「変える」の中で紹介されてました。投稿記事は、2015年7月23日付 朝日新聞。その投稿記事を書いたのは、現在86歳の元予科練生の加藤敦美さんという男性。



安保法制が衆院を通過し、耐えられない思いでいる。
だが、学生さんたちが反対のデモを始めたと知った時、特攻隊を目指す元予科練(海軍飛行予科練習生)だった私は、うれしくて涙を流した。

体の芯から燃える熱で、涙が湯になるようだった。
オーイ、特攻で死んでいった先輩、同僚たち。
「今こそ、俺たちは生き返ったぞ」とむせび泣きしながら叫んだ。

山口県、防府の通信学校で、特攻機が敵艦に突っ込んでいく時の「突入信号音」を傍受し何度も聞いた。人間魚雷の「回天」特攻隊員となった予科練もいた。
私もいずれは死ぬ覚悟だった。

天皇を神とする軍国で、貧しい思考力しかないままに、死ねと命じられて爆弾もろとも敵艦に突っ込んでいった特攻隊員たち。人生には心からの笑いがあり、友情と恋があふれ咲いていることすら知らず、五体爆裂し肉片となって恨み死にした。16歳、18歳、20歳……。

若かった我々が、生まれ変わってデモ隊となって立ち並んでいるように感じた。
学生さんたちに感謝する。
今のあなた方のようにこそ、我々は生きたかったのだ。




書き写すだけで、涙がこみあげてきます。この記事のことは昨年の夏に奥田さんのスピーチの映像で聞いて感動したのを覚えています。でも、ここに「防府の通信学校」とあるのを見つけて、震えました。おそらく、加藤敦美さんは、あの防府天満宮にある、碑を建立した方達のお一人なのです。

奥田愛基さんは、その後、加藤さんのもとを訪れて、すでに耳が遠くなった加藤さんと筆談でやりとりしたそうです。

加藤さんは、予科練の通信網施設で、特攻隊として敵艦に突っ込む戦闘機から送られる、最後の通信を聴く役で、普段は「ツー、ツー、ツー」とある一定の間隔で区切られて信号が送られてくるのですが、突っ込む際は電子キーを最後の最後まで押し続けるそうです。加藤さんはその最後の音を、聞いてこられた方でした。

奥田さんは、加藤さんにたずねました。

「なんで自分たちがそこにいるような、生き返ったような気がしたのですか?」



憲法九条は私の仲間たちの死と引き換えだった。
平和憲法を守るために、私達は何度も特攻の話をした。そして、その中で、何度も私達は死なないといけなかった。

あの時は、善悪の判断を自らすることは許されなかったし、人間が人間として扱われているような気がしなかった。真空の中に閉じ込められているような、余計なことは考えるなと。そういう感じだった。

通信施設で特攻の突っ込む音を聴いている。
最後の最後まで通信音を送ってくる。
そして、音がなくなる ー。
憲法九条を語るために、私たちはずっと、あの時代に真空状態のままでいないといけない気がした。

しかし、君たちは、自分たちの日常に憲法を見ている。それが嬉しかった。

70年たって、やっと、私たちがこの憲法に生きて、刻み付けられた気がした。







戦後七十年間、”真空状態”のままで死とともに、平和を語ってこられた加藤さん。
SEALDsの若者たちの平和を守るために行動する姿を見て、70年の時を超えて解き放たれたというのです。ああ、なんという、戦後70年なのでしょうか。。。
私は、安倍首相の戦後70年談話を聞いて、ひどく落胆したのですが、国会の前ではこんなことが起こっていたのですね。
ほんとうに、長く長くかかり、最後のギリギリに、戦争を体験された方々に間に合って本当によかった。

そして、もうひとつ。
なんということでしょうか。。。



この防府通信学校の予科練生だった加藤さんは、「70年たって、やっと、私たちがこの憲法に生きて、刻みつけられた気がした」とおっしゃってるのに、今、自民党は、その憲法を無惨に変えてしまおうとしています。

70年もかけて、ようやく、私達は、日本国憲法 そして、憲法第九条の貴い意味を理解し、受け取ろうとしているのにもかかわらず。

この憲法は、本当に多くの戦前の、無惨な死をとげた、国の内外の戦争の犠牲者の方の上に成り立っているのです。そして、戦後70年、一度も日本人が戦争で死なずにこれたのは、この憲法九条があったからことです。

7月10日の参院選挙。
自民公明党が参議院議員の三分の二をとれば、憲法改悪が発議されます。
自民党の憲法改悪案は、最低の内容です。
九条を守るため
そして、基本的人権・立憲主義をもう一度深く理解し受け取るため、どうか、神様私達にチャンスをください



追記₍歴女のつぶやき)
この防府天満宮は、京都の北野天満宮、福岡の大宰府天満宮と並び称される日本三大天満宮のひとつです。天満宮とは、平安時代の実力ひとつで下級貴族から天皇の側近となり政治の頂点に達した菅原道真の御魂をまつる神社のこと。藤原家の諫言により大宰府に左遷。ここ防府天満宮は、菅原氏の一族の縁のある土地で、菅公が宇多天皇から呼び戻されるのではないかと、最後まで執着した地です。
菅公が、大宰府で病死したのちに、都では天変地異や疫病が。彼を左遷させた藤原氏たちも病死。これは菅原道真の祟りだと言われたものです。そこで、恨みをもったまま亡くなった人の魂を癒し、神としてまつるという「御霊会」の信仰が深まりました。日本の文化や精神性には、この「御霊会」が色深く影響しています。日本全国の天神は、菅原道真の縁の地でもあるますが、あるいは、何か恨みをもって亡くなった人の魂を鎮める御霊会としてまつられた場合もあります。

菅公、菅原道真は、幕末、長州志士たちのヒーローだったようで、特に、高杉晋作はかなりの菅公ファンで、天神信仰をもっていたと言われています。防府天満宮は、八月十八日の政変で都から追放された長州志士たちの心の支えでもあったのでしょう。
ところで、高杉晋作は身分制度を超えて国を守るという奇兵隊を組織したので有名です。身分制度を超えて、、、とはいえ、実際には農民たちに近代兵器をもたせた部隊。戦うのは農民で、武士は司令官。戦死者も夥しくいました。高杉晋作は、その戦士した奇兵隊員たちを、神としてまつるための「招魂社」を山口に設立しました。その後、戊辰戦争の戦死者たちは、新しい国家に仕えたとして、神として神社に祭るようになったのです。これが、靖国神社の始まりですね。その後、明治政府は国家のために亡くなった戦死者を靖国神社に祭るようになりました。この靖国神社そのものが、やはり「御霊会」信仰によるものなのでしょう。途方もない数の若者たちが、国家のために命を奪われていったのです。なんと、痛ましいことでしょうか。。。これが戦前国家です。その若者たちが、御霊会によって魂が浄化し、「平和」をもたらす神として、地上に降り立ったのが、あの九条なのでは?と思えてなりません。。。

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# by reiko-koyago | 2016-06-27 16:40

光の循環 ~レイライン通信、再開しちゃいます~

2016年が始まり一カ月が過ぎました。
なんと、レイライン通信、1年3か月ぶりの更新です^^。
ここのところfacebookの投稿と、NPO法人タッチケア支援センターのブログの更新に忙しくて、このレイライン通信に記事をアップする時間がありませんでした。このブログをスタートしたのは2003年ですから、もう13年も存続してるのですね^^。でも、このように時々休憩してしまうこともよくありました。ま、それでも継続は力ですね^^。昔の文章を読むとほほえましくなってきます。こうなったら、死ぬまで続けちゃおうかなぁ、、、なんて・・。

2011年にNPO法人タッチケア支援センターを立ち上げてから、意識の中にパブリックに、、、というモードが働いていたようですが、2016年に入って、、もっと自由に文章を書きたいという気持ちが深まってきちゃったようです。facebookにもよく投稿してたのですが、最近その欲求が強くなりすぎて、どうも文章が長くなりすぎる。。。なので、古い古いブログ”レイライン通信”の復活です。(あ、レイラインとは、Ray Line,,,2001年からスタートした、もともとの私のヒーリングサロンの名前です→今や知らない方も多いですよね^^)

さて、再開、最初の投稿は、こんなテーマから。。。


昨日から再び、「こころにやさしいタッチ&ヒーリング12回講座」が始まりました。この講座もまた、レイライン時代にスタートしたもので、2003年からお客様に頼まれて開講した私なりのエサレン®ボディワークスタイルの全身のオイルトリートメント講座です。タッチケア支援センターを立ち上げてからは、そちらの主宰に変更しましたが、2012年から15年にかけてのシャー先生のエサレン®ボディワーク資格認定コースのお手伝いの体験を経て、自分なりに、深まってきたような気がして、昨年からこちらも再スタートしたわけです。

昨日は、12回コースの第一回目。初日はいつものように、お一人お一人の自己紹介から始まりましたが、たとえば。。。

ほんとうは自分自身をケアしないといけないのですが、なぜか、人をケアすることを学ぶことを選んでしまったのです。

こういうふうにおっしゃる方はとても多いですし、振り返れば私自身もそうでした。
おそらくは癒しの道に入る方の多くの方が体験されているのではないでしょうか?

結論を言えば、どういうきっかけであれ、方法であれ、意識的であれ、無意識的であれ、自分自身を癒すことを選択していくことは、大いなる勇気と決断と祝福に満ちたものであると私自身は思うので、「他者を癒すことを学ぶ」ことからスタートしてもかまわないわけなんです。いずれにしても、Welcome to this path !! なのであります。

タッチケア講座にしても、タッチ&ヒーリング講座にしても、人に触れるということを通じて、自分自身を感じ、自分自身に触れて、自分自身をケアすることを体験することは、うちの講座では必須です。なので、いっそもう「セルフケア講座」「セルフヒーリング講座」にしようかとも思うことはあるわけなんで、まぁ、それも、いずれ考えてみてもいいかなぁとは思うのでありますが、やはり「ふれる」ことを通じての自他の関係性は興味深く捨てがたさを感じます。

ところで、今回の受講生の方で、もともと私のお客様として初めてエサレンボディワークを体験し、そしてその後エサレンの認定コースに進みプラクティショナーとなられた方がおられます。何をいまさら、こんなベーシック講座を、、、と思ってしまうのですが、ご本人のご希望ということで再受講枠でご参加いただいているのですが、まぁ、昨日の交換セッションでは、とてもとても、美しく、慈愛に満ちたセッションを目の前で展開してくださり、久しぶりに、施術を見て胸が熱くなる、、、ということを体験しちゃいました。
今の私に、これほどに、愛に満ちたセッションができるだろうか??と思い、正直な感想を彼女に述べたところ、、、。

何を言うんですか、これはもともと、玲子さんが私にしてくれたことじゃないですか!

と、、、。

へ? 記憶にございません~。
(そもそもセッション中は「今ここ」度が高いので、終了すると忘れてしまうことが多いのです、、、)

でも、そういえば、他の方にも、そんなことを言われたことがあります。なるほど、かくのごとく「癒し」というものは、受け取ったほうが記憶に残りやすいのですね^^。そういえば、私もそうです。というのか、受け取らないと、自分自身の深いところに落ちていかない。振り返れば、私も多くの感動的な癒しを受け取ってきたわけです。

で、私が体験した癒しは、多くの場合、その癒し手もまた、私に与えたことを、忘れてしまっている、あるいはそのことに執着しない方が多いわけです。そういえば、私もまた、「ありがとうございます。あの時、私に届けてくださったヒーリングで、私は本当に癒されました。感謝の言葉もございません!」などとその方にお伝えした場合、やはり同様に、「へ?」てな顔をされるのでした。

たとえば、もう、15年以上前の話ですが、あまりにも、偉大な癒しを受け取ったあるヒーラーさんに、私は、思わず、このようにつぶやきました。「凄い、凄いです~~!!あなたは素晴らしい!!」と。

そしたら、その方、むっとして、真剣に怒り出してしまい、こういわれてしまいました。

凄い、凄いってねぇ、あなた。「人間存在」そのものが、凄いんですよ!!

うーん、やられました。私がせっかく受け取った癒しの光を、それを引き出したヒーラーさん自身に「すごい!」と称賛してしまうことで、その光をその人のほうに送り返してしまうことを、その方は、見事にばっさり、返金してくださったわけで、おかげで私は、せっかく受け取ったものを、やすやすと手放すことをせずに、しっかりと「受け取る」ことを完結することができて、「この癒し」が明らかに自分の中に起こっていることであることを確認することができました。その方は、そのプロセスをサポートし、しっかりと見守ってくださったわけです。


そして、私は、こうやって受け取ってきたことをクライアントさんに伝え、そのクライアントさんもまた、その方のクライアントさんや、大切な方に伝えていってくださっている。。。そして、その循環はさらにつながり、かつてクライアントや生徒さんだった方から、私は再び愛を受け取り、愛を学んでいくこともあるんだなぁと思うと、嬉しく、そして、豊かな気持ちになってきました。やはり、長く続けているといいこともありますね^^。(受け取ってくれて、ありがとう^^)


光の道筋は、円を描くかのように、循環し、
魂の光は交差しながら、螺旋状に、共に歩みゆく。



レイライン通信の再スタートに相応しいテーマをいただきました。

では、皆さん、これから、また、つらつらとつぶやきますが、また時々、お付き合いくださいませ^^。




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# by reiko-koyago | 2016-02-01 11:25

11月6日、小原仁先生のボディサイコセラピー入門講座

私の最初のボディワークの師匠の小原仁先生。
日本のボディサイコセラピーの草分け的な存在のお一人です。
今回、小原先生に、ボディワーカーやタッチセラピストのための
「ボディサイコセラピー入門ワークショップ」開催することとなりました。
ぜひ、ご参加ください。(残席わずかですのでお急ぎください)

              アマナスペース&タッチケア支援センター代表
              エサレン®ボディワーク認定プラクティショナー
                                中川玲子

小原仁先生の
ボディサイコセラピー入門ワークショップ


日時    11月6日 木曜日 午後2時30分から5時30分 4時間
定員    6名
参加費  7000円
場所    アマナスペース(JR立花駅北へ徒歩6分 大阪からJR神戸線で3駅目)
https://www.google.co.jp/maps/place/amana+space/@34.741836,135.401296,15z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x9a8afc6fcfb46f66

お申し込み 
お名前・メールアドレス・お電話番号・ご住所を明記の上、下記にご連絡ください。
メール touchandhealing.121@gmail.com
電話  06-4967-9839 (留守番電話に要件をお知らせください)
アマナスペース 中川玲子



小原仁氏 プロフィール
1980年関西大学大学院社会学研究科博士課程修了。同年4月関西大学社会学部専任講師。関西大学人権問題研究所研究員。1982年4月助教授。学生部長代理2期4年歴任。
1986年3月退職後、かねてからの人間学研究をベースに研究所所長、
セミナー・トレーナー、カウンセラー、セラピストとして生涯学習活動に従事。
現在JBI日本バランシング協会、コハラワークス(小原身心教育研究所)代表を務める傍ら、50数年間のワーク体験をベースに<ホロノダイナミック・バランシング>を提唱し、個人ワーク、グループワーク、カウンセラー、セラピスト、ボディワーカーの養成に活躍中。
バイオシンセシス・インターナショナル認定セラピスト。
EABPヨーロッパボディサイコセラピー協会認定ボディサイコセラピスト
BIPSバイオインテグラルサイコセラピースクール:トレーナー、ディレクター
立命館大学大学院:非常勤講師   日本トランスパーソナル学会理事
日本精神分析学会、日本人間性心理学会会員
「こころとからだのふれあい マッサージバイブル」(ルーシー・リデル著)監訳

11月6日、小原仁先生のボディサイコセラピー入門講座_a0020162_12153368.jpg

# by reiko-koyago | 2014-09-29 12:19

9月20(土)&21(日) タッチ&ヒーリング講座 2days

2014年度 二度目のタッチ&ヒーリング講座を開講します。
*8月9日&10日の講座が、台風で休講となったため、9月20日と21日に延期させていただきました。
 まだ、若干残席がありますので、ご希望の方はお声かけください。

ロングストロークを中心とする、全身のオイルトリートメント入門講座。
ヒーリングとしてのボディワークの基本をお伝えします。

1日目は、基本のタッチとアプローチ、からだ全体、そして、body&mind&spirit を統合するよう導く、全身のロングストロークの基本。
からだの使い方、身体観、ムーブメントワーク等を通じての、やすらぎをもたらすタッチの質感を育みます。また、肉体とエネルギーのつながりを理解し、より繊細で、こころとからだ、そして、魂をつなげるヒーリングワークとしての、ボディワークをお伝えします。マッサージテーブルを使用して、着衣のままでの静かにふれる”気づきのタッチ”のワークと、後半は、オイルトリートメントで、全身を豊かにつなげるロングストロークで、流れるようなflow感を体験します。

2日目は、午前中は、フィードバック練習。おひとりおひとりのタッチの質感を御育てします。午後は、主に上半身、肩・背中・腕の筋・骨格のアプローチで、緊張をゆるめるマッサージ技術の基本。内側からの深いリラクセーションと、筋骨格系への働きかけのバランス、そして、部分と全体とのバランスを体験的にまなびます。

久しぶりの開講で、再受講割引もありますので、認定コースを検討中の方も、そうでない方も、お気軽に御参加ください。自分自身も、施術を受けれますので、ご自身の学びと癒しの1日にどうぞ。

【日程】
1日目   2014年9月20日(土)  10時~17時30分
2日目   2014年9月21日(土) 10時~17時30分



【受講料】
1日、13000円
2日、受講   25000円

    * 以前、タッチ&ヒーリング6回コース以上を受講された方や、エサレンの認定資格者の方は、
      再受講割引で1日80000円。
    * 1日目のみの参加は可能。2日目のみは、再受講のみ。(2日で完結したクラスとなります)



【持ち物】
フラットなシーツ1枚、フェイスタオル2枚、  
バスタオル3枚(1枚は上にかける大判なもの。2枚は足枕用ですので、同じ素材のものをご持参ください。お持ちでない場合は、おかしいたします)
動きやすい服装(着替え可能 上は半袖)
筆記用具

【場所】   amana space 兵庫県尼崎市立花町2丁目13-10 アルファホーム1階
      アクセス » http://www.amanaspace.com/access.html
       * 地図上で、タイムズとあるところが、現在、セブンイレブンとなっております。
      


【定員】   6名 (定員になり次第、締め切らせていただきます)

【講師】   中川玲子( amana space エサレン®ボディワーカー)
        profile http://www.amanaspace.com/profile.html
お問い合わせ : メール touchandhealing.121@gmail.com
電話  0649679839  

【お申込みフォーム】  

お申込みは、上記の連絡先か、こちらのフォームからどうぞ。

パソコン用フォームURL http://ws.formzu.net/fgen/S63761025/
携帯電話用フォームURL http://ws.formzu.net/mfgen/S63761025/


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2003年より開講してきた講座で、はやくも、今年で11年目となりました。10年以上かけて、少しずつ温めてきたやさしいタッチの在り方を、どなたにも、簡単に実践していただけるように、内容を創意工夫しながら、デザインしてまいりました。15年間、実践しつづけてきた、わたしのエサレン®ボディワークの理解をもとに、”ヒーリングとしての、ボディワーク”をお伝えしたいと思います。

これまで、この講座の受講生の多くの方が、エサレンボディワーク資格認定コースに進まれたり、エサレン以外で自宅開業へと歩まれた方もおられます(10回コース修了の方/現在開講しておりません)。それぞれの受講生の方の、自己表現と成長、そして、自立のために、この講座がお役にたてば幸いです。

2014年11月22日より、第三回目の、関西&エサレン研究所での、エサレン®ボディワーク資格認定コースを開催します。
日程など、詳細は、こちらをどうぞ。
http://eb-kansai.com/

9月からの、NPO法人タッチケア支援センター主催「こころにやさしいタッチケア講座」は、こちらです。
http://touchcare.exblog.jp/22574958/
(こちらは、定員となりました)

9月20(土)&21(日) タッチ&ヒーリング講座 2days_a0020162_23483216.jpg

# by reiko-koyago | 2014-05-30 10:24

エサレン®ボディワーカーでNPO法人タッチケア支援センター代表理事の中川れい子(旧こやごれーこ)の個人ブログです。2003年から、エサレンやソマティクス、ボディワークや癒し、聖地巡礼、社会問題の徒然を気ままに綴り続けています。Soumyaは”月の女神”をあらわす私のホーリーネイム。


by reiko-koyago