2011年 05月 11日
「見る」のではなく 「ふれる」ということ。
東北被災地での活動を終え、5月6日夕方に仙台駅を出発。2つの新幹線を乗り継ぎ、夜遅くに関西の自宅に戻りました。くたくたながらも、自宅があり、自分の寝室があることが、いかに恵まれているのかを実感しました。今なお、被災地の避難所暮らしを続けておられる方が、あれほど大勢おられるということを思わずにいられません。
昨日、NPO法人タッチケア支援センターの公式ブログを立ち上げました。
http://touchcare.exblog.jp/
今後の活動報告、最新情報を、こちらから発信いたします。
取り急ぎ、東北での活動記録は、こちらに記載いたしました。
少し長いですが、お読みいただけましたら、幸いです。
岩手、大槌町(5/3.4) http://touchcare.exblog.jp/15506258/
宮城、七ケ浜(5/5) http://touchcare.exblog.jp/15507095/
★
瓦礫の風景は、1995年1月17日以降、3月末から4月頃までの期間、日常で見続けた光景でした。
うちのお迎えや数件隣のお宅がそうであるように、ぺしゃんこに潰された瓦礫の家屋には、そこで亡くなられた方がおられたかもしれないという予想が当たり前のようにたちました。異臭とほこりがたつ被災地の風景は、私にとって見慣れた風景であり、そして、それが撤去されて更地となった後は、もう、二度とそれを見ないんだという漠然とした安心感と同時に、時の移りすぎを実感したものです。。。
大槌町に到着したとき、目の前に広がる瓦礫の荒野に、一瞬、息をのみました。
その途方もない果てしなさは、私が体験した阪神大震災のときの被害を、はるかに超えていました。
誤解をおそれずに、表現するならば、そこは、言葉のない、時間のとまった空間に見えました。
もしも、私が、そこを車で通りすぎただけながら、おそらく、その表現だけで、私の感想は終わってしまっていたでしょう。
でも、避難所となった安渡小学校、大槌稲荷神社、そして、個人のお宅に、勇気をもって中に入れさせていただき、そして、お身体にふれてから、その無機的な空気は一切消え去り、そこに暮らす人々の、いのちのあたたかみと、たくましく、生き生きとしたエネルギーが伝わってきました。
そこに生き、生活し、再建のために、日々活動されている人々がおられることを、忘れてはならないということが、深く、私の中に、刻まれました。
瓦礫はいずれ撤去されるでしょう。避難所の人たちは、次に、仮設住宅へと移られます。そして、それからさらに数年・・・。恒久的な住居が確保されるまでに、あと数年はかかります。
当事者にとって、これは本当に長い道のりですが、阪神大震災を経験したものとして、必ずいつか、トンネルの向こうへと抜ける日がやってくることということを、伝え、励まし、そして、支援していくことができればと、思いました。
★
阪神大震災から1年後、私は、縁があって、須磨区鷹取駅付近にある、「下中島公園自治会」という、公園内でボランティアをしていました。
下中島公園自治会について、残された記録はあまりありませんが、ちょっと、ググってみますと、下記の記録がみつかりました。私は、ここに1年半ほど、半住み込みのボランティアとしておりました。
http://www.geocities.jp/sinsaikoe/theme73.htm
ここでの思い出は本当に、多数ありますが、今は、この言葉が思い出されます。
フランスのジャーナリストの女性が、ここを訪れたときに、書かれたエッセイのタイトルがこれでした。
「私は、下中島公園で、なにも見なかった」 これを読んだとき、このフランス人ジャーナリストの女性の複雑で、かつ、真摯な気持ちが伝わってきたものです。私はそのとき、下中島公園の半住人だったので、私たちの目からみて、1日だけ訪れたフランス人ジャーナリストの彼女は、たしかに「何も見ていない」ように感じました。
★
この言葉は、フランスの女流作家、マルガリット・デュラスの(ルイ・マル監督作品映画)「ヒロシマ・私の恋人&二十四時間の情事」という映画の戯曲の中の、有名な言葉に由来します。
それは、終戦後の広島に訪れた主人公のフランス人女性ジャーナリストが、一人の広島在住の日本人男性ジャーナリストと出会い、一夜をともにします。そして、彼に言われる言葉、それが・・・
「きみは、ヒロシマで、なにも見なかった」
ヒロシマについて話すこと、見ることの不可能性を表出した冒頭の台詞です。
★
激しく破壊された瓦礫の風景は、私たちから、言葉を奪い、そして、その無機的な風景に心を奪います。
「見る」ことの限界は、そこに立ちふさがり、私は、おそらく、そこをそのまま通過したならば、
「わたしは、大槌町で、なにも見なかった」存在で終わったでしょう。
しかし、一歩踏み入り、たとえ短い時間ではありますが、避難された方のお身体にふれさせていただき、そして、少なからぬお言葉を聞かせていただくことができました。
16年前の阪神大震災を経て、私のところに届いた
「ふれることを学びなさい」というメッセージ・・・・。
それが、このことだったのかと、、、と、今更ながら、目に見えぬ導きに驚かされます。
ふれることで、私の中、そこで暮らす人々の、いのちのあたたかみが伝わり、そして、今なお、そこで暮らしつづける人々への愛のようなものが、おしよせます。
私は、大槌町で、なにも見なかった。
しかし、ふれることができた・・・。
10年以上の歳月を経て、私が、知らず知らずの間に準備をしてきたことが、これであったとは・・・。
まさに、やりのこしたことを、やらせていただけたという、しみじみとした思いがおこり、この導きと、ふれさせてくださった避難所の皆様への感謝の気持ちがただ広がる思いです。
今日で、東日本大震災から2か月目。
復興までの、気の遠くなるような長いみちのりに、世界中からの愛と光が注がれますように。
NPO法人タッチケア支援センターでは、今後も、岩手県大槌町、宮城県七ケ浜への支援活動を継続していくことを、現在検討中です。
写真は、大槌町、安渡小学校すぐ近くの、避難所「大槌稲荷神社」
ここにも、大勢の方が避難生活をされています。
すぐ近くのお寺も、避難所となっています。

昨日、NPO法人タッチケア支援センターの公式ブログを立ち上げました。
http://touchcare.exblog.jp/
今後の活動報告、最新情報を、こちらから発信いたします。
取り急ぎ、東北での活動記録は、こちらに記載いたしました。
少し長いですが、お読みいただけましたら、幸いです。
岩手、大槌町(5/3.4) http://touchcare.exblog.jp/15506258/
宮城、七ケ浜(5/5) http://touchcare.exblog.jp/15507095/
★
瓦礫の風景は、1995年1月17日以降、3月末から4月頃までの期間、日常で見続けた光景でした。
うちのお迎えや数件隣のお宅がそうであるように、ぺしゃんこに潰された瓦礫の家屋には、そこで亡くなられた方がおられたかもしれないという予想が当たり前のようにたちました。異臭とほこりがたつ被災地の風景は、私にとって見慣れた風景であり、そして、それが撤去されて更地となった後は、もう、二度とそれを見ないんだという漠然とした安心感と同時に、時の移りすぎを実感したものです。。。
大槌町に到着したとき、目の前に広がる瓦礫の荒野に、一瞬、息をのみました。
その途方もない果てしなさは、私が体験した阪神大震災のときの被害を、はるかに超えていました。
誤解をおそれずに、表現するならば、そこは、言葉のない、時間のとまった空間に見えました。
もしも、私が、そこを車で通りすぎただけながら、おそらく、その表現だけで、私の感想は終わってしまっていたでしょう。
でも、避難所となった安渡小学校、大槌稲荷神社、そして、個人のお宅に、勇気をもって中に入れさせていただき、そして、お身体にふれてから、その無機的な空気は一切消え去り、そこに暮らす人々の、いのちのあたたかみと、たくましく、生き生きとしたエネルギーが伝わってきました。
そこに生き、生活し、再建のために、日々活動されている人々がおられることを、忘れてはならないということが、深く、私の中に、刻まれました。
瓦礫はいずれ撤去されるでしょう。避難所の人たちは、次に、仮設住宅へと移られます。そして、それからさらに数年・・・。恒久的な住居が確保されるまでに、あと数年はかかります。
当事者にとって、これは本当に長い道のりですが、阪神大震災を経験したものとして、必ずいつか、トンネルの向こうへと抜ける日がやってくることということを、伝え、励まし、そして、支援していくことができればと、思いました。
★
阪神大震災から1年後、私は、縁があって、須磨区鷹取駅付近にある、「下中島公園自治会」という、公園内でボランティアをしていました。
下中島公園自治会について、残された記録はあまりありませんが、ちょっと、ググってみますと、下記の記録がみつかりました。私は、ここに1年半ほど、半住み込みのボランティアとしておりました。
http://www.geocities.jp/sinsaikoe/theme73.htm
ここでの思い出は本当に、多数ありますが、今は、この言葉が思い出されます。
フランスのジャーナリストの女性が、ここを訪れたときに、書かれたエッセイのタイトルがこれでした。
「私は、下中島公園で、なにも見なかった」 これを読んだとき、このフランス人ジャーナリストの女性の複雑で、かつ、真摯な気持ちが伝わってきたものです。私はそのとき、下中島公園の半住人だったので、私たちの目からみて、1日だけ訪れたフランス人ジャーナリストの彼女は、たしかに「何も見ていない」ように感じました。
★
この言葉は、フランスの女流作家、マルガリット・デュラスの(ルイ・マル監督作品映画)「ヒロシマ・私の恋人&二十四時間の情事」という映画の戯曲の中の、有名な言葉に由来します。
それは、終戦後の広島に訪れた主人公のフランス人女性ジャーナリストが、一人の広島在住の日本人男性ジャーナリストと出会い、一夜をともにします。そして、彼に言われる言葉、それが・・・
「きみは、ヒロシマで、なにも見なかった」
ヒロシマについて話すこと、見ることの不可能性を表出した冒頭の台詞です。
★
激しく破壊された瓦礫の風景は、私たちから、言葉を奪い、そして、その無機的な風景に心を奪います。
「見る」ことの限界は、そこに立ちふさがり、私は、おそらく、そこをそのまま通過したならば、
「わたしは、大槌町で、なにも見なかった」存在で終わったでしょう。
しかし、一歩踏み入り、たとえ短い時間ではありますが、避難された方のお身体にふれさせていただき、そして、少なからぬお言葉を聞かせていただくことができました。
16年前の阪神大震災を経て、私のところに届いた
「ふれることを学びなさい」というメッセージ・・・・。
それが、このことだったのかと、、、と、今更ながら、目に見えぬ導きに驚かされます。
ふれることで、私の中、そこで暮らす人々の、いのちのあたたかみが伝わり、そして、今なお、そこで暮らしつづける人々への愛のようなものが、おしよせます。
私は、大槌町で、なにも見なかった。
しかし、ふれることができた・・・。
10年以上の歳月を経て、私が、知らず知らずの間に準備をしてきたことが、これであったとは・・・。
まさに、やりのこしたことを、やらせていただけたという、しみじみとした思いがおこり、この導きと、ふれさせてくださった避難所の皆様への感謝の気持ちがただ広がる思いです。
今日で、東日本大震災から2か月目。
復興までの、気の遠くなるような長いみちのりに、世界中からの愛と光が注がれますように。
NPO法人タッチケア支援センターでは、今後も、岩手県大槌町、宮城県七ケ浜への支援活動を継続していくことを、現在検討中です。
写真は、大槌町、安渡小学校すぐ近くの、避難所「大槌稲荷神社」
ここにも、大勢の方が避難生活をされています。
すぐ近くのお寺も、避難所となっています。

by reiko-koyago
| 2011-05-11 11:26

