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源泉の光へ① 伊勢リトリート/ アマテラスとフーマンに導かれ

被災地岩手から戻ってから、7月2日から4日まで、伊勢内宮宇治橋近くの青少年研修センターで、瞑想リトリートに参加していました。2泊3日のサイレンスリトリートです。一週間のうちに、被災地と伊勢とが同時に起こることに、我ながら自分自身の生き方に、おかしみがおこります。偶然とはいえ、不思議なめぐり合わせです。でも、それが私の人生なのでしょう。
到着した夜に、五十鈴川での禊、翌日早朝には、伊勢内宮での正式参拝(御垣内参拝みかきうちさんぱい)をさせていただきました。

五十鈴川では、古き女神の、瀬織津姫様の清流に抱かれ、心身の汚れを洗い清め、早朝の伊勢内宮では、美しく晴れきった清らかな太陽の元、御垣内の聖地に入らせていただき、その純粋な光に包まれ、大宇宙の女神、天照大神様のもと、この世の平安を祈りました。


私達を、ここ伊勢の地へと導いたのは、2005年にこの地上を旅立った、フーマン・エマミという名のマスターの御霊です。フーマンの秘書であるダニエラが、フーマンの旅立ち以降、はじめて、フーマンの遺骨を胸に日本を訪れ、その地をフーマンゆかりの伊勢としました。

私は、2002年の9月、このフーマンのもとで、7日間のサイレンスリトリートを体験しています。
この時の体験は、同年2月の、アジズのもとでの14日間のサイレンスリトリートと同様、私にとって非常に重要な体験です。


私は誰かのハートの純粋性を知る時、恩寵がただちに降りてくる。   by フーマン・エマミ


”私は誰なのか?”

このことを知ろうとする心は、魂の純粋性に促されます。
私達は、日頃、この魂の純粋さそのものを、忘れてしまいがちで、
だから、自分が何者であるか?という問いかけすら、遠く感じます。


私がそのことを、自分に問いかけたのは、2001年の5月。
初めて、アジズと出会ったときの、彼のサットサンガの中でした。
突然、彼の、この言葉が、私のハートに届き、涙が止まりませんでした。

" Who are you ? "


アジズのこの問いかけが、私のハートの扉をたたきました。
私はそのことを知らない自分を知りました。
この孤独、不完全感、存在の悲しみ。。。
喉の奥から、嗚咽が起こり、ただ、号泣しました。
私のハートは、涙で洗い流され、その時、ほんの一瞬、やわらかくなったようです。
そこに、恩寵の光が射し込みました。

恩寵とは、ある時、思いがけないとき、思いがけない言葉で、おとずれるもののようです。
それは、ハートの扉を通り、おとずれるのだということも、その時、体験しました。

私が本当のところ、何者であるかを、探求したいという欲求は、数日後に開催される、アジズの瑞岳院という山の上の禅寺でのリトリートへと誘いました。
私は、何者であるのか?
それは、私が日本人であったり、誰の娘であるとか、どこの学校を出たとか、あるいは、誰の妻であったり、どういう仕事や立場であったりとか、そういうものを超えたもっともっと根源的なところにあるものです。それは、もはや、名前もなく、形もありません。
私達の魂が、どこからやってきて、そして、どこへ行くのか?に似ています。
いえ、それよりも、もっと、「今」に根付くものです。




2001年の5月
アジズのサットサンガでの、who are you ? の問いかけに号泣し、そして、その後、アジズの瑞岳院でのリトリートに参加し、そこで、大いなる恩寵の体験を得るまでの、その間に・・・。

私は、小学校の時の修学旅行以来、はじめて、伊勢に訪れています。
なんの気もなく、ただ、年老いた両親が、伊勢に行きたいというので、それに同行しただけでしたが、

20年ぶりに伊勢内宮の宇治橋の前に立った時の、あの、奮い立つような感動と懐かしさは、忘れられません。その旅では、外宮・猿田彦・内宮・月読宮・大和姫…とめぐり、そして、最後には、奇跡のような導きのもとで、志摩の伊雑宮へと、たどり着きました。

その伊勢の旅から数日後、私は、山梨県の山の中の禅寺、瑞岳院へと向かいました。
アジズのリトリートに参加するためです。
はじめての瞑想。はじめてのサイレンスリトリート。
一切、周囲とコンタクトをとらず、自分の中にいること。おしゃべりもアイコンタクトも不要です。
そのことは、私に大いなる安らぎを与えてくれました。
それは、”私 I am ” へと向かう扉が開かれたことを意味します。
そこにくつろぎ、そこに安らぎを得ます。
瑞岳院の山の空気はすがすがしく、とても、気のエネルギーの高いところでした。
最初の3日間は、マインドが灰汁のように浮上しますが、3日もすぎると、マインドのほうが飽きてきたようで、退散しはじめます。 ただ、そこに在る、くつろぐことに、心地よさが、徐々に私をつつみます。
瞑想と、気功とボディワークを通じて、私は心身の統合の感覚を味わえるようになりました。
そして、その後に、ある奇跡が私に起こりました。
あれは、恩寵だったのでしょう。。。
あるいは、文字通り、”光”だと言ってもいいでしょう。
(でも、悟りとか光明とかではありません。私はこういう伝統的な言葉はちょっと苦手なんですよね。ただ、文字通りの”光”そのものでした。それなりに伝統的な文献をあたってみると、なんらかの説明はつくようなのですが。。。でも、もういいんです^^。とらわれることから卒業しようと思います。)

私は私であり、そして、私を超えたもの。
全一性(wholenes)
そして、何かに溶けつつある感覚と同時に、すべてはつながっているという感覚・・・。
身体だけでなく、意識もそうでした。
私は、その時、私が何者であるのかを、体験として味わいました。
それは、”言葉”では、名づけれないものです。



それを名づけれないということを、あの時、知っていれば、よかったのですが、
残念ながら、私のマインドは、その大いなる体験を、なんとか説明したい、名づけたいというエゴにからわれました。
名づけれないものを、名づけようとすることは、根本的に間違っています。
その名づけようとするマインドの力が、あっというまに、私を日常の、普段とかわらぬ私へと戻しました。
(でも、それでよかったのだと思います。そうでなければ、私は精神が破たんし、病院送りとなってたでしょう。沈黙は私を守ってくれました。)

あれは、偶然与えられたものだったようです。
そう、私は、悟ってなどいません。
ただ、あのとき、光が通過しただけです。

不安・怖れ・恐怖・懐疑・・・。
その人間らしい生業から、私は自由にはなりませんでした。
ただ、この世には、そういうことがあるらしいという実感は、大きな心の支えになりました。
そして、あのようなことが、二度とおこらないことも、なんとなくわかります。
少なくとも、肉体をもつ間は。

ただ、その後、還るところがあることを、知りました。
それを知り得たことも、あの体験があったからこそでしょう。。。。

あれが2001年の5月。
おもいおこせば、ちょうど10年目なんですね、今年は・・・・。

blessing for my soul ....





でも、あの時の私は、その体験にとらわれて、さらにそれを深めたいと願い、
あれから、なんどもリトリートに参加していきました。
(もしかすると、もう一度起こるかもしれないという淡い期待を胸に・・・)

もちろん、二度とおこりませんでしたが、それは、それで、素晴らしい体験でした。
その後のリトリートは、主に浄化であり、カルマの解消が主な理由だったと思います。

とくに2002月2月のインド、ミスティックビレッジでのアジズの指導のもとに過ごした2週間のサイレンスリトリートは、本当に、しあわせな体験でした。あの平安。あの、喜び。。。あの美しさ・・・。
私が人生で、もっとも幸せだったと感じれる、最高の時間の記憶がそこにあります。


おっと、アジズのことだけで、話がいっぱいになりました・・。

少し長くなったので、続きまた次回に。

次は、表題にあるように、フーマンエマミのことを、語りたいと思います。



謹んで、源泉の光に、ひれふして・・・。
by reiko-koyago | 2011-07-07 12:08

エサレン®ボディワーカーでNPO法人タッチケア支援センター代表理事の中川れい子(旧こやごれーこ)の個人ブログです。2003年から、エサレンやソマティクス、ボディワークや癒し、聖地巡礼、社会問題の徒然を気ままに綴り続けています。Soumyaは”月の女神”をあらわす私のホーリーネイム。


by reiko-koyago