本日、関西に戻りました。新幹線の中で昨日訪れた、賀川豊彦松沢記念館で購入した60ぺージ程の小冊子「賀川豊彦と太平洋戦争ー戦争・平和・罪責告白ー」を読了。ずっと知りたかったことが詰まっていて、明日からの新しい日を生きるためには、書き残しておいたほうがいいように思い、今日もまた賀川豊彦の個人的記録を(長いですよ~)冊子の著者は河島幸夫、西南学院大学教授(1990年当時)。政治学・平和学の研究でドイツ留学中に、ドイツ人によって賀川豊彦のことを聞かされて、その後興味をもち研究をされたということです。こういう小冊子に、意外と大切な記録が見つかるものなのですが、これは貴重。
この冊子は、私にとって長年の謎であった、日本の非戦・反戦論者は太平洋戦争中にどのように生きたのか?という疑問に応えるものでした。
それは、日本の思想史に刻まれた「転向」という精神の痛ましさを語るものです。
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日本は明治国家が設立してすぐに軍事国家として成長していきます。日清・日露と進む中、日本で最初に非戦・反戦運動が起こったのは、日露戦争の頃であるのは、あの与謝野晶子の「君死にたもうなかれ」の歌でも有名ですね。中心は、内村鑑三等、キリスト教的人道主義者でした。
賀川豊彦は、高校生の頃の軍事教練を「人を傷つけるための訓練」であると拒否し、教官から激しく罰せられます。さらに、18歳の時に「徳島毎日新聞」に「世界平和論」を投稿。軍備全廃と永久平和を唱えています。これが、日露戦争から2年目のこと。すでに明治学院大学の学生でしたが、筋金入りの非戦・平和主義者であったことがわかります。
その後、1914年の第一次世界大戦以降、全世界的な非戦・軍縮の空気が盛んになります。時代は、大正デモクラシーへ。政党政治や護憲運動、労働運動や社会主義運動、さらに、組合運動等が盛んとなった、賀川豊彦が最も活動した時代へと入ります。日本の政党の中でも、山東出兵やシベリア出兵等の軍事拡大派(軍部と立憲政友会)と、非戦・軍縮派(主に立憲民正党)が対立しながら、均衡を保つ時代となります。この時期、賀川豊彦は「平和への道」「軍備の撤廃されるまで」等を寄稿。
1925年、タゴール、ガンジー、アインシュタイン、ロマン・ロランと共に「徴兵制廃止の誓い」に署名し、さらに、1928年。日本国内のキリスト教や社会主義者とともに「全国非戦同盟」を結成します。この「非戦同盟」については、名前は知っていたのですが、あまり資料がなく、詳細がわからないままでいました。今日はようやく出会えた感あり^^。
賀川は、序文にこう記します。
「見よ!現代を特徴づける諸多の現象を。際限なき軍拡拡張と、必死なる市場争奪、植民地圧伏と政治の反動化、等等。これこそ実に戦争を不可避的にし、その範囲と規模とを、広大ならしむる根拠である。しかも、一方において或いは軍縮会議を以て、或いは不戦条約を以てその好戦的意図を隠蔽し、民衆の目を覆うて戦備を急ぎ、一度国際情勢の不均衡に逢えば直ちに〈戦争に〉訴えんとするの危険、叱り第二次世界大戦の危機は近く我々の前に来らんとしつつある」、、、と、まるで予言の書のようですね^^。
全国非戦同盟の、3つの綱領はこちら。
① われらは戦争準備の行動に反対す。
② 我らは侵略に基づく政治的経済的教育的運動に反対す。
③ われらは略奪を鼓吹し弱小民族および虚弱団体に対する軍国的言論と圧迫とに反対す。
この、1920年代の大正デモクラシー期の非戦・軍縮の機運は、他の資料を観ても同様なのですが、問題は、こうした非戦の意識が高まったのにもかかわらず、なぜ、押しとどめようもなく、あの人類最悪の戦争(第二次世界大戦)へと突入していったのか? 日本は、まさにその主役であったわけです。
1930年代になると、日本の中国侵略はいよいよ本格化。
1931年、満州事変、1937年、盧溝橋事件を契機に泥沼の日中戦争へ。
この時に、賀川は、こう書き記しています。
「私のすべての祈りにもかかわらず、日本の軍国主義が中国で行った暴虐、今も中国で行っている暴虐を思うと、耐えきれぬ恥ずかしさがこみあげてきます。・・・私が百万回教えを乞うても、日本の罪をあがなうには、十分ではないでしょう。私は、恥ずかしい。私は日本の軍国主義に影響を与えるには、あまりにも弱いからです。無力な私を中国の指導者たちが避難するのは、もっともなことです。私には責められるに値するからです」・・・と、中国語で中国語版で綴っています。これはもう、、、この時代の人道主義者・知識人たちの悲痛な声をあらわしているのかもしれません。。。
こうした思想をもつ人物は、当時、平和思想・反戦容疑で何度も、逮捕され、尋問を受けます。賀川豊彦も何度も憲兵に拘引されました。
南京大虐殺の報せを受けたときも「日本の罪を許してください。日本のキリスト教徒は軍部を抑制する力はないけれど、心ある者は日本の罪を嘆いています。私どもの祈りと働きによって、キリストの菜による両国の親和の日が来るように願ひます」と中国語で発信し、その後、日本の憲兵に見つかり、投獄されます。
その後、日米開戦を避けるために、「キリスト教平和使節団」をアメリカに派遣することが、政府の方針で決まり、賀川豊彦もその一員として渡米。帰国後も、日米の諸教会と合同での、一週間の「戦争防止世界平和連続祈祷会」が行われることに。そのような、祈祷があったのかと、驚きますね。
しかし、、、残念ながら、祈りで戦争を回避することはできませんでした。
くしくも、1週間の連続祈祷が終了し、ろうそくの火を消した直後の12月8日の朝、ハワイ真珠湾攻撃での日米開戦の報が教会に入ったとのこと。
1941年12月の日米開戦から、1945年の8月15日の敗戦まで。何度も弾圧を受け、投獄され、日本中すべての活動がそうであったように、賀川達のキリスト教伝導もできなくなります。そして、さらに、恐ろしいことに、賀川豊彦は、その影響力を利用され、戦争協力のためのプロパガンダとして利用されていくのです。いわゆる、日本の思想史に大きな闇を放った「転向」ですね。共産主義者による転向は有名ですが、キリスト教徒や平和主義者もまた同じです。
1943年1月。賀川は「天空と黒土を縫い合わせて」と題する詩の序文の中ではこう記します。
(さすが、ベストセラ―作家、悲しいぐらいに美文です・・・)
「ルーズベルトの国家のみが自由を持ち、アジアの民族のみが奴隷にならねばならぬという不思議なる論理に、太陽も嘲ふ。。。アジアを保護国のごとく考えたチャーチルとルーズベルトは、遂に地を以て太平洋を永遠に赤く染めた。血潮の竜巻は起こった!真珠湾の勇士等の血潮に、ソロモン列島の尽忠烈士の熱血に、義憤の血潮は天に向かってたぎり立った。『大君のへにこそ死なめ、省みはせじ』-私心を打ち忘れ、生死を超越し、ただ皇国にのみ使えんとするその赤心に、暁の明星も黎明の近きを悟りえた。・・・嗚呼、アジアは目覚めた! 印度は解放を叫び、中華民国は米英に向かって呪いの声をあげた!・・・大和民族の血潮は竜巻として天に沖する。されば全能者よ、我等の血潮を以て新しき歴史を書きたまへ」
愕然とするような、国家主義的鼓舞。。。しかし、軍部に強要され転向を余儀なくされたとはいえ、ここに書かれていることもまた、当時日本が置かれていた状況のもうひとつの側面であったことも否めません。朝鮮・台湾の植民地支配、中国の侵略と虐殺、さらにアジアへの侵攻・・・。日本が恥ずべき蛮行は数えきれず、その事実は永遠に消すことはできません。が、同時に、日本人がアジアの解放のための正義として戦ったと自ら信じていたことも否めない歴史でしょう。そして、賀川豊彦にすれば、日米交渉の努力もむなしく、アメリカは圧倒的な軍事力による優位性をもったまま、日米開戦へと進み、日本はアジアの小国として追いつめられていったという思いもあったのでしょう。その後、賀川は激しくアメリカを批判し、大東亜戦争をアジア解放のための正義の戦争として位置付けます。賀川のみならず、こうしたアジアの解放の正義と欧米列強に対する憎悪は、当時の日本の精神性の中心でした。
しかし、このことが、戦後、「賀川の転向」と批判されていくこととなります。
この小冊子を書いた河島幸夫先生は、賀川の転向について、こう分析します。
① 賀川は天皇崇敬主義者であった。
「賀川の天皇好き」はかなり有名だったようです。当時の時代精神としてはごく普通のことだったのかもしれませんが。ここは唯物史観的社会主義者とは異なり、社会活動家であり人道支援家であった賀川豊彦は、同時に神秘主義思想家でもありました。おそらくは、天皇という「神聖さ」に対して、他者以上に敏感であったのかもしれません。それにしても、神の愛を超えるほどの神聖さとは?日本人にとって「天皇」とは?と、あらためて考えてしまうのでありました。賀川は、天皇の戦争責任についても、追求しない側に立ち、国民一人一人に責任があるとする「国民総懺悔」を推進します。
② 常に弱者の側にたつ。
アジアを侵略する日本の軍部を批判し続けた賀川でしたが、太平洋戦争が勃発してからは、強大国アメリカに徹底的に追い詰められるアジアの弱小国、日本への愛国の情は激しく高まったのでしょう。本土空襲・原爆投下・・・。焦土と化した日本を前にして、賀川が感じた悲痛な思いは容易に想像がつきます。
③ 相当に激しい弾圧を受けて、数々の団体にかかわる賀川は、自分自身の精神性を守るだけではすまされない状況であった。
太平洋戦争期の治安維持法による憲兵の弾圧は、相当なものでした。誰一人として、反戦を語ることはできない状況で、語れば確実に拘禁、さらに激しい拷問による獄中死が待っています。また、家族や職場にも及んでいきました。
以上、様々な想像は可能ですが、プロパガンダする側にたった罪は、やはり大きいと言わざるをえません。
後年、賀川は、ある外国人記者からこう問われています。
「あなたが、戦争犯罪者であると目される人はだれか?」
その時、賀川はこう答えたそうです。
「戦争犯罪者の最大の者は私です」
なんという大きな十字架でしょうか。。。
賀川豊彦の歩んだ道は、罪と罰という十字架を背負う道でもあったのでしょう。遠藤周作の「沈黙」の物語を連想してしまいました。
(遠藤周作は、隠れキリシタンのことではなく、まさに、この戦中のキリスト者の苦悩を描きたかったのでしょう。)
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1939年。日中戦争が泥沼化し、日本軍の中国での侵略・虐殺が国際問題となった時期、、、賀川豊彦は、マハトマ・ガンジーと出会い、日中戦争においてとるべき態度を、ガンジーに尋ねています。この苦渋に満ちた問いかけと対話・・・、これが「マハトマ」か、、、と、震えるような内容です。この対話は極めて重要な資料だと言えるでしょう。ガンジーの非暴力・服従を通じてのアジアの解放とインド独立は、日本の軍国主義的アジア侵略とまったく正反対の形をとります。この時期、ガンジーは、日本軍の中国侵略に対して激しく批判しています。賀川豊彦にもそのことを語っています。
賀川
「あなたが、わたしの立場に立ったら、どのようにされるのか? それをお伺いしたいものです」
ガンジー
「わたしは、自分の異端の説をはっきりと公言します。そして、喜んで射殺されるでしょう。ハカリの一方の皿に、生活協同組合とあなたの事業の全部をのせ、他方の皿にあなたの国の名誉をのせて考えてみましょう。もし、あなたが国の名誉の尊いことを知ったならば、日本にさからってあなたの見解を公表し、そうすることが死をもたらすものであるにせよ、あなたの死を通して、日本を生命あるものにすべきである、と、あなたに要求したいと思います。しかし、こうするためには、心の確信が必要です」
賀川
「確信はあります。しかし、友人たちが、わたしに思いとどまるように頼んできたのです」
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戦後、数年たってから、賀川豊彦の伝記を著した横山春一が、戦争中に賀川の姿勢が変化した理由を聞き出そうとしたとき、賀川豊彦は、無言で、ただ、聖書のこの言葉を示したそうです。
「もし、わが兄弟わが骨肉のためならんには、
我みずから、のろわれて、キリストにすてらるるも、亦ねがうところなり」
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神の道を歩むとは、なんと、荊の道なのでしょうか。。。
そして、「非戦」「平和」の道もまた、荊です。
まるでゴルゴダの丘をのぼるかのような荊の道を経て、
戦後日本には、”非戦”の誓いの刻まれた、日本国憲法が届けられました。
いったいどこから届けられたのか?
天を見上げながら、憲法九条の重みをあらためて思います。
慟哭の果てに、世界平和の祈りはついに至らしめる。
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この「転向」の歴史は、私の賀川への関心をさらに熱くしそう。
そして、日本という国の精神性の変遷についても。
それにしても、この時代に生まれていなくて、
つくづく良かったと思います。
二度と同じことが繰り返されないために、
もう少しこの問題を考えてみたい・・・。