そして、、私自身が必ず向かっていく”死”へとむかう道のりを学ぶ場でもあります。痛み・むかつき・むくみや痺れ・・・。苦しみと共に在るというのは、これほどに大変なことなのかと最初は慄きましたが、今は少し慣れてグランディングできるようになりました。少しの時間ですが共に在り、できれば少しでも苦しみをやわらげ、そして、時にはお話相手になって、気持ちが穏やかになれたら、、、というささやかな思いでの活動です。タッチケアのボランティアは、一期一会が基本ですが、そのことの意味が、緩和ケア病棟では切ないほどに際立ちます。
で、今日はタッチケアにまつわるエピソードを。
このテーマ、結構重要かもしれません。
今日はお二人の方から
「〇〇の光、、、とかじゃないの?(手かざしで有名な)」
「それって、宗教?」
と、尋ねられました。
お二人にも聞かれるのも、これも何かのメッセージかもしれませんので、少し熟考してみることに。。。いわゆる「手あて」「手をあてる」ということへの、宗教的なイメージですね。(ただ、今日、質問されたお二人は、私が実際に行う行為を体験してそう質問されたのではなく、「からだに触れる」という言葉のニュアンスで、そう問われたのです)
もちろん、私は「宗教じゃないんですよ。科学的にわかっていることです。皮膚へのやさしい刺激でリラックスがおこるんですよ」と簡単に説明します。最初に病院とかかわるときにも、もちろん説明しています。数年前に、個人的な依頼を受けて行かせていただいた病院も「治療ではないこと」「宗教ではないこと」を確認されます。この2つのポイントは大切ですね。
オイルを使ってのハンドトリートメントも行いますが、終末期の方のほとんどの場合は、軽い圧での着衣の上からのタッチケアが多くなります。皮膚や骨も弱くなっておられるからです。ゆっくりとした動きは、今・ここを大切にした、マインドフルネスな動きからくるものです。同時に、安全性も高くなります。グランディングをし、相手の方の呼吸等のゆらぎを静かに感じます。軽くさする場合も、(医療機器があったり、皮膚に傷がないかを注意しながら)、ゆっくりとしたストロークになります。
こういう皮膚やおからだへのかかわりが、自律神経系を調え、そのことで痛み等を緩和することが多く、実際に理論的な背景は多くあります。そうした理論をきちんと明示したほうがいいのでしょうが、実践の現場では、〇〇すれば、△△になりますよ、、、と説明すると、そこにマインドが囚われすぎて、リラクセーションに向かい辛くなることもあるので、言葉の説明の使い方も、匙加減が必要かなぁと思います。
今日の方にも、簡単に説明して施術に入ると、すぐに「なんも、しんどいのは変わらへんわ」と。(いや、今始まったばっかりだし・・・とめげずに、、、同時に、その”しんどさ”を受容して・・) 10分ほどすると、うとうととされ始めました。とてもつらい状態の方ほど、振り子がふれるようにリラックスされることがあります。張り詰めておられたのでしょう。。。でも、根本的な苦しさが無くなるわけではありません。できれば、なんらかの緩和がおこるとよいのですが、やはり、ひと時でも”共に在る””寄り添い”そのものが、大切なことのように思うのです。(そして、寄り添い・つながり・ゆだねる質が、結局、リラクセーションを引き寄せるのでしょう)
かつて「治療」を「手あて」と呼んだように、手をあてることは癒しの原点だったのでしょう。近代以前の日本では、ごく普通に家族や民間治療で行われてきたことだと思います。日本の現代文化では「前近代的なもの」を、宗教的・・・と言って揶揄するような傾向があるのかもしれません。なんだか、怪しい。あいまいな感じがする。それに、「宗教じゃないの?」という言葉の背景には、騙されるんじゃないのか?という警戒心もあるでしょう。何か信用を勝ち取ったり、マインドコントロールをしてだますという感じでしょうか。タッチを通じて信頼関係が生じて、そして何かを強要するということは、絶対にあってはならない倫理の基本ですが、そのことを空気感として伝えるには、適切な距離感・バウンダリーの意識も大切です。
いずれにしても、手をあてること、ゆっくりとさすることへの、科学的な理解が、スタンダードになるよう、根気強く普及していくのが大切なのでしょう。同時に、倫理性と安全性も確立していかなければいけません。宗教的な価値観の押しつけもあってはならないことでしょう。
とはいえ、私は、お一人の方からは、もうひとつ異なるニュアンスを、感じたのです。
私が、その方の足の甲に、穏やかに触れていたとき、その方が、「あなた、祈ってくれてるの?」と、私に声掛けされました。
その時、私は、〇〇になりますようにと、祈っていたわけではありません。
ただ、「今・ここ」にいて、その方のおからだを大切に感じながら触れていただけです。
言ってみれば、ほとんど「無」な状態です。
でも、私は、ちょっと冗談めかして(ここで、「いいえ、祈ってません」というのも失礼な気がして)
「あ、ばれましたか? はい、祈ってたんですよ~^^」って答えました。
「細胞のひとつひとつに、お祈りしていたんですよ」って。
すると、その方が、とてもやわらかな笑顔でほほ笑んでくださったのです。
なんだか、ささやかな祈りが、すぅっと通じ合えた瞬間でした。
*
宗教じゃないの?
って言葉には、宗教じゃあ嫌だわ。なんだか、怪しい・・・。という言葉と同時に「既存の宗教では嫌だわ」というニュアンスも少し含まれているのかもしれないと、ふと思いました。
ほんとうは、何か、”宗教的なもの”が、必要とされているのかもしれないなぁ、、、と感じたのです。
あるいは、もっと現代的な言葉として”スピリチュアリティ”と呼んでもいいのかもしれません。
それは、何か、言葉を超えたものであるような、気がしました。
タッチケアは、おからだへの、いのちへの祝福であり、そして、祈りでもある・・・と、いつも講座ではお伝えしていますが、終末期の方への活動では、そのことの深みが、ほんとうに増していきます。
(写真は、JRの駅から見上げた、夕刻の六甲山。 病棟から見下ろした、神戸の街はもっと美しかったのですが・・・)