3月はご時世にあわせて、ほとんどの講座とボランティア活動は休止。
おかげで家でゆっくり過ごせているので、ちょっと徒然に、脈略を気にせずに気づいたことを書き留めていこうと思います。
この取材の時にNYを歩いたガブリエルは、2月の新型ウイルスが世界を震撼させることと3月のNY株式の大暴落はさすがに予測はしてなかったでしょうに。でも、番組の中でNYのマンションに投資しようとしている女性に対して、絶対に投資しちゃだめだと釘をさしていました。
マルクス・ガブリエルの語る世界に、ウォール街の終焉後の世界の在り方が見え隠れしていましたが、今回、じわじわっと響いたのは「意味(meaning)」と「体験(experience)」という言葉です。
ガブリエルによると、社会には「生存形式(survival form)」と「生命形式(life form)」がある。
生存形式は、とにかく生きるために必要なものを獲得するという生命としての機能。これについては、今後、ベーシック・インカムを導入する必要があるだろうとのこと。一方、生命形式とは、精神活動、すなわち「意味の場(field of meaning)」の存在形式であるとのこと。
私達一人一人が、存在意味をもち、そして、これまで生きてきた体験のひとつひとつに意味があるという考え方。現在の社会モデルは、大人の視点から作られていて、そこには「勝つか負けるか」とい生存モデルが主流。しかし、子どものころからの体験に意味があるものもあり、それぞれにとってのストーリーがある。この資本主義の世界はデータと統計主義でもあり、個人は集合の一部としてとらえて、個人の個々の体験を数値化しない。しかし、その体験にこそ意味が眠るのではないか?(おわかりのように、この場合の「意味」は外から評価される存在意味的なニュアンスではなく、一人一人がみずからの体験の中で実感する「意味」です。当然ながら、一人一人によってその意味は異なり、言語化し、評価や比較することはほとんど無理でしょう)
社会の複雑性を軽減することは不可能だけど、すべての存在に意味があるという”窓”があり、地球上すべての人々が”意味ある人生”を歩むことが大切である・・・というのが、ざっくりとした第三話の結論でした。
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話がとびますが、新型コロナウイルス騒動で自宅でゆっくり過ごしている間に、夫のお父さんの中川米造氏の遺稿を読み返しておりました。『パラドックスとしての身体ー免疫・病い・健康ー』(河出書房新社)という1997年発刊の対談集の中のインタビュー記事「<病い>を捉えなおす」のところを読んでいると「意味」についての記述がよく出てまいりました。97年というのは義父さんが亡くなられた年なので終末期の病床でのインタビューだと想像します(他にも遺る、終末期のインタビューでも「意味」についてよく語っておられましたので、まさに「遺言」に近いお言葉ではないかと思うのですが)最後のところには、こう書かれています。
人間にとって意味というものは非常に重要な与件です。
明示的な知というものは、ある意味で意味を一般化させることで、かえって希薄化させます。意味などなくても、共通の法則性があれば流通してしまうわけですから。
しかし暗黙知まで掘り下げれば、それはどうしても意味にぶつかります。
医療に今最も求められているものは、おそらくこの意味の問題であると思いますし、それは暗黙知に関わる問題だと私は考えます。
(暗黙知というのは、明示的な知の対になる概念で、明示的な知というものは、原因を外に求め、因果関係がはっきりわかり、エビデンスもしっかりあるということです。一方、暗黙知というのは、明示的な知の背後にある「身体的・個人的な、いわば、非言語的な知」のこと。同じく、同インタビュー集には、こうあります。
普通我々が言う治療とは、要するに明示的な知を共有することによって病気を発見し、治すという一連の流れ全体を指すことであり、それで解決ができればいいわけです。
しかし、ある症状が出て、それを明示的にはっきりとした病気として捉えられないこともあります。先ほど言った器質的な疾患は、明示的にとらえることも可能です。しかし、機能的な疾患は、そもそも明示的な言語でとらえることは不可能なものです。それは、患者さん自身が自分で意味付けしていかなかえればならないものだからです。いわゆる暗黙知に属するこのであり、明示的な知として明確に言語化される以前の非言語的な知です。患者さんが自分で意味づけると言っても、そもそも非言語的な知ですから、非常に難しい。
ちなみに、明示的な知と対で語られている「暗黙知」を唱えたのは、マイケル・ポラニーという哲学者(1891-1976 )で、ハンガリー出身の哲学者です。
代表作の
「暗黙知の時点ー言語から非言語へー」は、夫の実家のトイレの中に、義父さんが亡くなられてから10年以上たっていた頃、私が初めて夫の実家を訪れたときに、まだ生前のままにお手洗いの中に置いてあったご本です。トイレの中での読書は、夫も好きなので、よく似ているなぁと思うのですが(読んでる本はかなり違いますが^^)想像するに、末期がんの終末期を自宅療養で送っておられたお義父さんが、最後に読まれた本がこの「暗黙知の次元」

今も手元に置かせていただいていますが、これがなかなか読みづらく難しい哲学書で読めずにおりました。が、先日1月に尼崎に来て2日間の講演をしてくださった安冨歩先生の「合理的神秘主義」に、このマイケル・ポラニーのことがかなり詳しくとりあげておられたので、ようやく理解が深まったところです。
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さて、この暗黙知の次元と医療について、昨今の、新型コロナウイルスにあてはめてみると、ウイルス感染の有無や感染経路の確定等、今はまだ「明示的な知」というエビデンスや統計、科学的な判断にそのよりどころをもつ段階ではありますが、やがて、多くの人が感染し、しかし、その多くの人が症状をもたず、あるいは、病状のあらわれ方が多様性をもつようになったら、また、感染することでその人の社会活動や家庭生活への影響も、様々な可能性が考えられるようになってくる段階に入ったら、この「暗黙知」の部分に、医療も目を向けなければならなくなるのではないか?と、そのようなことを考えたりも。
検査結果で陽性であるからといって「病気」であるとは言えない微妙な状態になるのではないでしょうか? 私は感染を抑えることに重きを置く現段階では、検査実施を推進したほうが良いと思いますが、このウイルスの微妙なところは、検査結果で陽性であっても、必ずしもそれが「病気」の状態とは言えないのでは?ということです。
たとえば、義父さんのインタビュー「<病い>を捉えなおす」には、こうあります。
60歳を過ぎたら、小動脈瘤は百%あります。
それをわれわれは老化と呼んできたわけで、それを病気だということ自体がおかしなことなのです。
検査は検査で有効だけど、検査結果だけがすべてではない。
今、世界で起こっているパラドックスは、検査をすることで隔離が必要な病人の数を増やしてしまい、それに対して医療が追い付かなくて、医療崩壊がおこり、本当に重篤な患者の対応ができなくなる。しかし、検査をしないと適切な隔離はできないし、誰が感染しているかわからないのでじっと自宅待機を全体で余儀なくされる、、すると経済そのものが停滞し、致命的な打撃を受ける人も多い。。。
感染拡大をふさぐための隔離対策は必要だけども、陽性であることの意味を、個々人のライフストーリーの中でとらえていかないといけないのではないか? もちろん「隔離」という言葉の意味にも、もっと多様性を持たせる必要があるかと思います。少なくとも、陽性の人を悪者扱いにする社会的態度は絶対に変えていくべきでしょう。
また、治療法も、抗生物質やワクチンという形ではなく、全体的な免疫力・抵抗力を高める、あるいは、ストレスを軽減するためのメンタルケア等が中心となっていくのではないでしょうか?
まさに、目に見えないウイルスがもたらす、暗黙知のパンドラの箱が開いたかのごとく。
もちろん、経済活動も、株の価格など、数値化されたものによって右往左往するよりも、それぞれ、個人個人の内側にとって、経済活動がどのような意味をもつのか、、、ということに依拠するようになっていくのでは?とも想像します。
目に見えない新型コロナウイルスが、世界中をあっというまにかけめぐり、医療と経済のシステムが連動しながら世界が変容し、そして、おそらくは、世界中の人々の幸福感・死生観にも影響をあたえていくでしょう。
風や空気や呼吸にかかわる、まさに「水瓶座」の時代の到来をあらわす2020年初頭大事件。
もうしばらく、グランディングして観ていきたいと思います。