聖林寺の十一面観音菩薩像といえば、天平文化(奈良時代)の代表的な仏像として教科書にも載っていて、写真も、何度も見ています。でも、実際に拝観したことはありませんでした。聖林寺って、奈良であるということ以外、どこにあるのかも知らなかった。場所は、奈良県桜井市の南。創建は、藤原鎌足の息子。鎌足の菩提を祀るお寺のようで、談山神社の神宮寺。

車のナビがなかったら、たどり着けそうにないような場所にあるので、この美しい観音様を観に来られる方も少ないでしょう。。。
忘れ去られたような大和盆地の南の丘。でも、そこからの見晴らしは美しく、三輪山と箸墓(卑弥呼の古墳ではないか?といわれている古墳)が並んで望める絶景です。
とはいえ、ほんとうに小さなお寺で、そこの本堂には、巨大な石でできたお地蔵さんがおられて、子宝と安産に恵まれるというので有名だそうです。この石のお地蔵さんを観に来られる方も、多いのでしょう。十一面観音像は、現在は、大悲閣という観音堂が建立されて、保存のため、薄暗い光の中で、その全身を拝見することができます。秘仏であり続けたからでしょう。奈良時代に作成された当時に塗られた、金箔もよく残っています。おそらくは、全身が金色に輝いていたのでしょう。
いや、それ以上に、この流れるような形の美しさ。繊細な右手の指。ふっくらとしたお顔。
あとで、読み返しましたが、白洲正子が「十一面観音巡礼」の中で
それは今この世に生まれ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのである。
‥と、表現したのも、伝わってきます。
いったい、このような美しい仏像を、誰が、どのような想いで作成されたのか?
おそらくは、三輪山の、大神神社の神宮寺のために、
しかし、第一級の国宝、天平文化の乾漆像の流れをくむ、聖林寺の十一面観音菩薩が、このような小さなお寺にひっそりと祀られているなんて。。。大学受験日本史の文化史では教えるものの、気にはなりつつ、一度も調べることもなく、30年がたってしまっていたのです。
ところが、ついに、拝観できました。
なんとなく、、、ふっと思いついて。どうして、今なのか?
奈良三輪山の、大神(おおみわ)神社さんにお詣りにいくときの、ついででした。
いつもは、長谷寺の十一面観音さんのところにいくのだけど、ふと、そうだと思いつき。。それも、なんとなくだったのです。
大神神社さんは、我が家にとってご縁が深く、父の事業が行き詰まったときに、知人が母にお詣りを勧めたところ、境内の杉の霊木で白蛇様に遭遇、、、たちまち父の事業の問題は解決したという、いわゆる霊験あらたかすぎて、怖いぐらいの体験をしていらいのご縁です(こういう理由では、私は神社にお詣りはしないのですが、でも、我が家と大神神社さんとのご縁はそう・・・) 最近は、姪っ子がよく車でお詣りにいくので、12月22日の冬至明け、木星と土星が水瓶座に入る日に、久しぶりに大神神社さんにお詣りしました。

(母がかつて白蛇様と出会った杉の御神木)
この大神神社さん、大和国で一番古い一宮で、そして、神武天皇が最初に大和王権をスタートした地ということで、とても重要な神社さんなんですが、関東の方は、あまりご存じないので、びっくり。やっぱり、奈良といえば、東大寺と春日大社のようですが、関西人にとっては、やはり大神神社さんでしょう。。。
御神体は三輪山で、大物主(おおものぬし)神を祀っているといわれています。
大物主神とは、大国主神の和魂とも。あるいは事代主神とも同一視されていますが、ようするに出雲系の神様です。
もともと、大和の国は、大物主神が支配していたところ、神武が、熊野から大和に入り、娘婿として迎え入れられた。これが、神武東征の物語だとも言われています。なので、大物主神のことを、饒速日(二ギハヤヒ)であるという説も有力です。大物主(饒速日)神がオールド・カマ―で、神武がニューカマーという位置づけですね。
神武天皇が、最初に大和王朝をたてたのは、この三輪山のふもとで。王朝という視点でみると、まさに、日本の政治のはじまりのはじまりの地。
万葉集や、日本書紀・古事記にも、とてもよく出てくる地です。この大神神社のことを、書き始めたら、きりがないので、今日はこれぐらいに。卑弥呼の墓ではないかといわれる、箸墓もあり、また、弥生時代の遺跡、唐子・鍵(巻向)遺跡も広がっています。神武以前から、奈良の盆地には王国が広がっていたのでしょう。
大神神社にお詣りしたら、必ず、お詣りするのが、荒魂であり、三輪山登拝の入り口のある、狭井神社。
水と薬と癒しの神様でもあります。
姪のお友達が中学受験なので、大神神社の摂社である受験祈願の神様、久延彦(クエヒコ)社にいくことに。狭井神社から、南に下ると小高い展望台を通過して訪れることができます。ここから眺める一の鳥居と奈良盆地の美しいこと。
久延彦社は裏側から上がり、お詣りしたあとは、正面の鳥居に。そこを、右側にいくと「若宮社」があります。
この若宮社は、何度か訪れましたが、ちょっと不思議です。神社なのに、建物が仏教寺院のお堂のようなのです。
そして、境内の中が、がらんとしている。とても、不思議な感じがしたのですが、あまりに殺風景な境内なので、写真も撮らずです。。。
若宮とは、大物主命の息子(あるいは、子孫)の、大直禰子(オオタタネコ)のこと。
崇神天皇の御代、人々の半数が亡くなるほどの、疫病が流行りました。天皇の夢の中に、大物主命があらわれて、自分の子孫に三輪山を祀らせなさい、そうすれば、世は穏やかになるだろうと伝えたとか。そこで、大直禰子(オオタタネコ)が大神神社の初代の宮司となったという話が、記紀に残っています。若宮社は、その大田田根子を祀る神社。
・・なんですが、、、実は、奈良時代の神仏習合の時代に、その同じ場所に大神神社の神宮司が建立されていたそうです。その名前も、大神(おおみわ)寺。
しかし、その後、廃れてしまい、鎌倉時代の奈良仏教の復興の際、西大寺の叡尊が、復興したとのこと。名前は、大御輪寺(だいごりんじ)と変わりました。
このあたりの流れは、こちらのブログに詳しいです。
少なくとも、歴史資料によると、鎌倉時代からは、現在は聖林寺さんにおられる十一面観音様は、大御輪寺(すなわち、若宮社)のご本尊であったのは確実だったそうです。おそらく、もっともっと前から。
この仏像は、奈良時代のもの。
ならば、おそらくは、奈良時代のはじめから、ずっと大神神社の神宮司の本尊であり続けたのでしょうか?
仏教が日本に伝来して以来、それまで、木々や山、川や滝などの自然崇拝であった人々の信仰が、仏像という人の形への崇敬へと変わっていきました。そして、奈良時代の鎮護国家の時代、疫病や戦乱で乱れ、混乱した国を安らかにするために、仏教を神道よりも優位な位置に置いた上での、神仏習合がはじまりました。仏だけではなく、神々をも、人の形で表現していきました。
大神神社の神様は、十一面観音様の姿で表現されたのです。
三輪山の東の、長谷寺が、十一面観音様で、西国三十三か所の観音霊場のはじまりとされるのですから、わからないでもありません。
そして、この大御輪寺(大神寺)の本尊であり続けた1000年以上の間、この日本の仏像芸術の最高峰の美しさを放ちながらも、ずっと秘仏であり続けたそうです。
では、なぜ、聖林寺に?
それは、明治になってからの、神仏分離令によるもので、廃仏毀釈の嵐が、奈良の寺院にも襲いかかりました。
大神神社の神宮司である大御輪寺は、廃寺に。
寺は壊され、仏像たちは、放り出されたといいます。
明治時代、日本の美術品や仏教美術を調査していた、フェノロサと岡倉天心が、この美しい十一面観音像と出会い、あまりの美しさに感嘆したといいます。あの美しい観音様と出会った時の二人の感動を想像すると、震えます。「この界隈にどれほどの素封家(大金持ち)がいるか知らないが、この仏様一体にとうてい及ぶものではない」と、語ったと記録されています。
フェノロサ達の発見によって、廃仏毀釈によって千年の秘仏を解かれ、破壊はまぬがれ、そして、この忘れられたかのような古寺、三輪山を北側にあおぐ小高い丘の上の聖林寺へとあずけられ、現在に至っています。(でも、ある意味、守られていたのでしょうね)
その封印が解かれ、放たれた際に、フェノロサが、驚愕し、後に、和辻哲郎の「古寺巡礼」でも、この聖林寺の十一面観音像のことは、美しい筆致で描かれています。
「流るる如く自由な、さうして均衡を失はない、快いリズムを投げかけてゐる」(和辻巡礼『古寺巡礼』)
それを読んだ、白洲正子が、「十一面観音巡礼」の中で、冒頭で、この観音像のことを、感嘆とともに著しています。「十一面観音巡礼」は、白洲正子とこの聖林寺の十一面観音菩薩との出会いから、始まっていったのです(確かに、愛蔵版の表紙もこちらの観音様です)
現在も、天平文化を代表する、国宝の仏像として、教科書にも載り続けているにもかかわらず、この十一面観音像と出会われた方は少ないのではないでしょうか。。。いやぁ、、私も、ほんと、今迄何をしていたのか? なぜ、こんなに時間がかかったのか。。。
この十一面観音様こそ三輪山の女神
大神神社の本地の神。
2020年の12月22日という日に、出会えれたのも不思議な流れです。
そして、2021年の5月に、聖林寺の十一面観音様は、はじめて、奈良を離れ、東京の国立博物館で、そのお姿をお見せくださるそうです(現地にいって、初めて知りました。なので、奈良での拝観は5月初旬までです)
わお!東京の皆様、もうすぐ、聖林寺の十一面観音様が、いらっしゃいますよ~。
しかし、歴史を紐解けば、かつて、崇神天皇の御代に、疫病が流行り、大物主神が天皇の夢の中に立ち、我が子孫に大物主神をまつらせよと命じ、大神神社がはじまり、そして、疫病は収まったといいます。
また、奈良時代、聖武天皇の時代、疫病と戦乱をおさめるために、鎮護国家のため、仏教に祈願し、東大寺の大仏を建立した。。そして、同じ時期(おそらく、奈良時代後期?奈良時代は女帝が多かったのですが)、大神神社の神宮寺である大神神社(後の大御輪寺、現在の若宮社)に、黄金色の十一面観音像が本尊としてまつられるようになった・・・しかも、秘仏として千年以上も。
廃仏毀釈がおこらなければ、今なお秘仏であり続けたかもしれません。
その、聖林寺の十一面観音菩薩立像が、はじめて、来年、東京に行かれるのですよ!
なんだかドキドキします^^。
帰りの車では、葛城山を越えて、奈良盆地から、東大阪へ。
夕日の光が、大阪中をピンク色に染めていました。
こちらは、淀川に沈む落日。