聖地巡礼 ー40年ぶりの恐山ー
2023年 06月 13日
4泊5日、岩手県と青森の旅。
岩手県では花巻を中心に、宮沢賢治と、アラハバキ、瀬織津姫ゆかりの早池峰山と早池峰神社をお参りしました。驚くほど濃密で、何もかもがぴたーっと符号があるかのような、素晴らしい旅でした。2023年、東北の旅、イーハトーブ編は、またあらためて。岩手県から、後半は、青森県へ。目的は、本州北端、下北半島の霊山、恐山へのおまいりです。
実は、恐山には40年ぶりで二度目。八戸で借りたレンタカーを友人たちが、ぐんぐん北へとドライブしてくれました。むつ湾沿いを、北上していきます。40年前は、電車で北上したものです。まずは、40年前の、恐山の旅を振り返らせてください。
40年前の恐山・・・。
40年前というのは、二十歳の時で大学生でした。学生同士の仲間と一緒に廻った青森県の旅。目的は、弘前・青森のねぶた祭。大学の文化総部という、大学祭のロックコンサートの企画でつながった仲間同士。日本のロックの源流に“ねぶた”を感じたという、今から思えばなかなか“文化”的な発想だったと思います^^。実際、青森で“踊った”、ねぶた祭は、圧巻でした(実は、夜行列車が弘前についたとたん、高熱を出してダウン。そのあと、復活して青森では、高熱後の半ば変性意識状態で、青森のねぶた祭では真夜中まで踊りまくっていたのです。若いってすごいことですね)
まぁ、とにかく、当時の私には、“青森”に不思議なあこがれがあったのです。縄文や、棟方志功、矢野顕子や三上寛、そして太宰治の故郷・・・。
ねぶた祭のあとの旅は、特に何も決めてませんでした。5人が5人、呑気だったのです。じゃあ、次は何処に行こうか?
なんとなく、では“恐山”へ。。。
どうして恐山だったのかな?と思い返すと、最近、鎌田東二先生と恐山の住職で禅僧の南直哉住職の対談を読んで思い出したのですが、今から思うと、寺山修二さんへの憧憬と追悼があったのかもしれません。アングラ演劇家であり、詩人であり、映画監督であり、「書を捨てよ町に出よう」の著者である寺山修二。遅れてやってきた私たちの世代にとってもあこがれの人でした。そして、青森出身で、三沢で青年時代を過ごした寺山修二の映像や演劇には、恐山をモチーフにした、白く、透明な光景が印象的的だったのです。(ところで、帰りの車、三沢のあたりで、寺山修二記念館というサインを見つけました。https://www.terayamaworld.com/museum.html また行かなくちゃ!)
その寺山修二が、1983年の5月、突然、亡くなったという・・・。47歳の若さです。訃報を聞いたときは、驚きました。なんだか、置いてきぼりにされたような気持ちになりました。70年代は、もう帰ってはこないのか。。。
私たちが青森を旅したのは、1983年の夏休み。今から思うと寺山修二がなくなって数か月のこと。でも、特に、寺山修二を追悼する旅だったわけではありません。二十歳のころはまだ、“追悼”や“鎮魂”なんて理解できてはいなかったのです。なんとなく、じゃあ、恐山に行こう・・・と。学生らしい、好奇心にすぎません。
下北半島を北上する電車は、見たことのない東国の木々の緑のトンネルを抜けるかのようでした。ああ、なんて遠いところに来てしまったのだろう・・・このまま、私は、何処にいってしまうのだろう??というあの時に胸に抱いた感情は、今でも思い出します。二十歳のころ。まさに、この先、自分はいったい、どこに向かっているのかが何もわからず、ただ心のままに、ロックや演劇や映画や文学に没入していた“親不孝娘一直線”なころ。
まだ“聖地”という言葉も知らない頃だったのに、本州最北端の最果ての巡礼地、“恐山”を訪れたのです。そこは、東北では“死者”と出会える地といわれ、この世とあの世の境目の地。硫黄の香りと、とてつもない“静けさ”が、空気に溶け込んでいる地でした。あの頃の私は、身近な人が亡くなった経験はあまりなかったのですが、もしかすると、寺山修二さんに会いたかったのかもしれません。あるいは、4歳で小児がんで亡くなった従妹の娘さん。私が小学生のころです。あまりにも可愛い女の子で、その死がショックすぎて受け止めれなかったのを思い出します。
ところで、恐山には、宇曽利湖という美しいカルデラ湖があります。
硫黄が沸いているので、生き物はほとんど棲むことができません。水は、青く透き通り、波紋が繊細です。対岸には、宇曽利山が見え、人を寄せつけない森が広がっています。
そして、砂浜が“白い”のです。
極楽浜と呼ばれています。
ところどころに、亡き人を思う石を積んだ塔と、小さい子供を亡くした方がおいていった風車があります。これは、まさに、寺山修二の描いた世界そのものでした。
白く、青く、透明な。
”あのよ”の風景でした。
不思議と怖いとは思わなかったのは、湖の底からも沸きあがる温泉が水を温かく、そして、地熱のせいか、砂浜も温かいのです。
まだ、静けさに慣れていない頃だったけど、生まれてはじめて、静けさが心地よく、平和だと感じたのはこの恐山でした。
最初は、足をつけていただけでしたが、だんだんと、湖の奥へと進み、ついに身体全部がつかり、服がびしょびしょに濡れてしまいました。えい、もういいやと、服を着たまま、宇曽利湖で、泳いでしまったのです。しかも、ワンピースで!寺山修二の映像世界に入り込んだかのようでした。岸から離れて、ずっと泳いでいきたい衝動にもかられましたが、なんとか抑えることができました。湖の水はあたたかく、やさしく、キラキラしていて、これが浄土というのか、ほんとうに許されているのを感じました(たぶん、ここは、遊泳禁止だと思うので真似しないでくださいね。40年も昔の二十歳のころのことです)
そのあとの旅の続きは、あまり覚えていません。そして、私の人生は、その後、想像もしていなかった方向へと向かいました。漆黒の向こう側の光へと潜りゆき、駆け抜けなければいけないと、どこかで心が決めてしまっていたかのよう。そして、“聖地”という言葉とはまったく無縁な日々が過ていきました。
今振り返ってみると、“恐山”は、私にとっての最初の“聖地”体験であり、そして、特別な聖地であったようです。その後、様々な聖地を訪れましたが、私にとって恐山は“一級聖地”であり続けました。なので、いつか再び、訪れたいと思っていたのです。ついに還暦を迎えた40年ぶりにその機会が訪れました。いやぁ、ほんとうに遠い^^。あらためて、なかなか行けるところではないことが、よくわかりました。今回は、青森出身のユキさんと、北海道出身のケイコさんという力強い仲間とともに、お二人にレンタカーを運転していただいて訪れることができたのです。
*
恐山というと、「恐い」イメージがどうしても付きまといますが、”おそれ”は「宇曽利(うそり)」が語源で、それはアイヌ語で「湾」という意味があると、鎌田東二先生の著書にもあります。ただ、うっそうとした山々の森の中に忽然とあらわれる硫黄の香りと透明な湖、その湖を囲むような山々(蓮華に例えられたそうです)光景は、だれが見ても“彼の世”や“浄土”を連想せずにはいられなかったでしょう。
青森には、沖縄のユタのように、“イタコ”という女性の霊媒師がいて、亡くなった方の言葉を伝えてくれるらしく、毎年夏の大祭の時には恐山にも集まるそうですが、恐山の寺院とは無関係だそうです。しかし、あの地にいけば、亡くなった方に語りかけたく、自然となっていくでしょう。
伝承によれば、1200年前に慈覚大師(円仁)が開いたと言われ、もともとは天台宗だったそうです。本尊は“地蔵菩薩”。のちに、曹洞宗となり、今に続いています。高野山・比叡山、とともに日本三大霊山(霊場)の一つとも呼ばれているそうです。江戸時代の鉈彫りの仏師、円空もここを訪れています。
もともとの民間信仰で、「死ねば、お山にいく」という、東北の人々の故人の面影を偲ぶ思いが、やさしく受け止められている。そういうお山だったのでしょう。
*
今回、私たちのレンタカーは、午後4時すぎに到着しました。少し、霧がかかっていて、あいにくの曇り空。今回は、こちらの宿坊「吉祥閣」で泊まります。
夕飯までに、まずは「宇曽利湖」へ。
夏至前の、日の長い一日でよかったです。
(結局、私たちは、ついた日の夕方と、翌日の早朝と、帰る間際と、3回、極楽浜を訪れ、瞑想しました。他の二人も、ここを気に入ってくれたようで、うれしかったです)
40年ぶりの極楽浜。
そして、宇曽利湖。
やはり、同じように
ひたすらに静かで
透明で、そして、あたたかい。
きらびやかではなく、
ただ白く、そして、やさしい聖地でした。
この安らかさはなんだろう?
頭の中のノイズが消えていき
心の中の忙しさがすっと落ち着くような。
おそれの向こう側にある彼岸。
40年前の大学生だった私は、
亡き人を思うことはありませんでしたが、
今の私は、大勢の、すでに旅だっていった家族や友人たちのことを
ここで思い浮かべることができました。
そして、語り掛けることも。。。
ちょうど、数週間ほど前に旅立った方のことを
まず、思い浮かべることに。
(くしきも40年前にご縁だった方です)
そして、父のことや、叔母や叔父のこと。
自死した友人たち。
40年前の私には想像もできなかった
死者との対話。
死んでからの魂がこのような地にたどり着くのならば
私たちは、大切な人の死も、自分自身の死もまた、
受け入れていけるのかもしれない。
まるで、神様や仏様が作ったかのような
自然が生みだした、恐山という聖地。
死んだ人間だけでなく、
生きている私たちも温泉につかり
病や疲れをいやすこともできる
心と体と魂の癒しの聖地。
極楽浜には、“風車”をたくさん見かけます。
風が吹くと、くるくると回り続ける。
どなたか、小さなお子さんを亡くした方が
風車を残して、死んだ子を供養する風習がここにはあります。
小さな命が、風となって
この恐山の、湖や木々や砂へと
溶け込んでいく。
そんな知恵を私たちは必要としているのかもしれない。
この、最果ての地にまでたどり着き
大切な人を失った悲しみ(悲嘆・グリーフ)を、
慟哭とともにあけはなっていく供養を
古代から時代を超えて、
受け継がれていったのでしょう。
今回は、展望台から見渡すことはできませんでしたが、
宇曽利湖は、上からみるとハートの形をしているそうです。
とても、とても、悲しいとき、
私たちは、白く、青く、透明なものに
心が向かっていくのかもしれません。
白と青と緑の
蓮華のお椀のようなカルデラに
硫黄の香りが広がる恐山は、
おそらくは、私たちの悲しみを癒す
ハートの聖地だったのでしょう。
翌日の朝、私たち三人は、
父方・母方の先祖供養をお願いしました。
父から、母から悠久の日々を受け継いできた
“いのち”に感謝するために。
立派な卒塔婆もつくってくださいました。
そのあと、あの、曇りっぱなしの恐山が、
一瞬、晴れていったのです!
宇曽利山が、きれいに見えました。
まるで天に祈りがつながったかのように感じたので、
もう一度、急いで、極楽浜にいきました。
ついた日に一度、翌日の早朝と、帰る間際に2度。
計、3回も、極楽浜で瞑想しました。
なんて、物好きな私たち^^。
そのあと、恐山をあとにして、
下北半島を下っていきました。
途中、六ケ所村の周辺を車を走らせてくれました。
40年前の旅では、なかったもの。
そう、、、下北半島には、原子力発電所の
使用済み核燃料が集められて再処理される
六ケ所村再処理工場が1993年より建設が進められて
稼働も、開始しています。
下北半島には、風力発電の風車や、
太陽光パネルがひしめいていました。
電力会社が、土地を買っていったのでしょうか?
ここで発電される電力のほとんどは東京へと送られるのでしょう。
40年前の私は、ここが核のゴミの集まる地となるとは
思いもよりませんでした。
さらに、車が南へ向かうと、三沢が。
米軍基地と飛行場の地です。
そこに、ふっと「寺山修二記念館」という看板をみかけました。
ああ、もう一度、下北半島にこなければ。
レンタカーは、八戸へ。
八食センターという、市場に連れていっていただいて、
八戸の海鮮料理をいただいて、
八戸から新幹線にのって解散。
あああ、、、なんという4泊5日だったのでしょう。
花巻、宮沢賢治、大沢温泉、ジブリ
そして、早池峰山と早池峰神社。
岩手から、青森へ。
まだまだ、語りつくせませんが、
ゆっくりと、書き残していこうと思います。
追記 1
とても、神聖な気持ちになる場所ではありますが、
関西弁ばりばりのお坊様と出会い、
私たちは、思いっきり、笑い会いました。
下北半島の最果ての地で出会った関西弁はすごかったー。
追記2
関西弁のお坊さんと一緒に、談笑している最中に地震が!
恐山は、地盤が固いので、めったな地震では揺れないらしい。
震源地は、北海道。
ケイコさんの実家なので急いで安否確認。
(ちなみに、携帯の電波はほぼつながりません^^)
追記3
恐山のユニークなところは、お寺の境内に温泉小屋があるところ。
今回は、女子風呂2か所と混浴1か所を制覇。
宿坊の中にも、内湯があり、とても立派でした。
ちなみに、私は、硫黄が肌にあわないので、
40年前と同じように、翌日に発疹が。
なにもかも、かわりませんー。
追記4
宿坊は、40年前とは見違えるほど、立派になってしました。
お部屋も、和室が広く、精進料理もおいしゅうございました。
追記5
昨年秋に、「ブラタモリ」で恐山特集があって、
それを見てきました!という方がやはり多かったです^^。
追記6
朝、7時半に、本堂でお勤めがあります。
先祖供養もさせていただきました。
ちなみに、本堂の本尊は地蔵菩薩ですが、
その裏側に“円空”作の、十一面観世音菩薩と聖観音が。
前日、関西弁のお坊様に尋ねてみたら、
拝観させていただきました。