2010年 02月 09日
無水無月 no water no moon
もうすぐ、この古いセッションルームを離れるというのに、まるで別れを惜しむかのように、先週はずっとセッション続きでした。。。今週も御一人来られますので、たぶん、その日が、ここでのくぎりの日になると思います。
思えば、ほんとうに、いとしい、いとしい、セッションルームで、あの部屋たちとともにすごした10年の歳月は、いま振り返るには、あまりにもその質量が重すぎて、いまは、そっと、駆け抜けていきたい気がします。
(御客様のことは、あまり日記には書かないようにしてるのですが、セッション内容にはかかわりのないことなので、少しだけ書かせてくださいね。。。)
さて、先週、ふと、御二人ずれのお客様がこられました。
御一人の方は、先に受けてくださってる方を御待ちになられる間、1時間あまり、カウンセリングルームで待機してくださっています。
御一人目の方が終わり、私が先にその部屋に戻ってみると、待っておられる方が、目に涙をうかべて、感動しておられます。あら、何がおこったのかしら?と、聞けば、私の本棚の中にある、一冊の本を、なにげにその方は手にして、最初の章を待ち時間の間に、読み上げてしまったそうなのです。。。
読んでいると、涙がとまらなくなり、まるで、この本を読むために、私のところにやってきたんではないかと思うほど、その方の心に触れたそうなのです。。。
その本の、その章は、私にとっても、大切な文章で何度も読み返したものでした。
でも、ここしばらく、忙しくて、忘れてしまってたのです。
私は、その方に、とても感謝しました。
私に、その本のことを、思い出させてくださって、ありがとう。。。
私は、その方によって、私を見つけてもらったような心地よさを感じました。
(セッションでは、多かれ少なかれ、giver と receiver との間に、シンクロニシティが起こっています。
触れることが、同時に、触れられることであるのと同様に、癒し手は、同時に、癒される側でもあります。
このダイナミズムが、ヒーリングの場をやさしく進化させていくのでしょう。。。
この10年のあいだ、なんども、おこってきたことです)
★
さて、その人が、涙ながらに、私に思い出させせてくれた、その本の題名は、
「無水無月 no water no moon」
インドの聖者、和尚の、禅について語った、エッセイ集で、その表題である、「無水無月」は、
千代能という(たしか、鎌倉時代の)、日本の尼僧が、
あるとき、突然、光明を得たときの心境を詠んだ和歌がテーマです。
以下、青い文字は、引用文です。
尼僧、千代能は何年も学んでいたが、光明を得られずにいた。
ある晩、千代能は水をいっぱいにはった古い桶を運んでいた。
突然、しめてあった箍(タガ)がもろともにはずれ、
桶はばらばらになって落ちた。
いっきに水が流れ、月の反映が消えた - 千代能は光明を得た。
彼女は、この句を詠んだ。
あれこれと どうにか桶をとめてきた。
もろい竹が切れないように。
突然 底がぬけた。
水たまらねば月もやどらず - わたしの手の中は空っぽ
とにかくにたくみし桶の底ぬけて 水たまらねば 月もやどらず
この物語についての、和尚の解説は、とても美しいものです。
これは、私にとって、予期せず、ふっと、出会ってしまった、ひとつの答えでした。
あまりのさりげなさに、肩すかしを覚えるほどに・・・。
2002年の2月、1か月間、インドにいました。
2週間の瞑想リトリートに参加するためです。
それは、いま思い出しても、至極の美しい時空でした。
あれが永遠であれば、どれほどに素晴らしいか、
いえ、あれそのものが、永遠であったのだから、
それが、長く続くとか、続かないとかを望むこともなかったのでしょう。
そのあとに、プーナの和尚コミュ-ンに1週間ほど、おりました。
毎日、和尚の廟である、「ラオツー(老子)」に通い、瞑想してました。
私はサニヤシンではないので、和尚への敬意と礼拝という意味ではなく、
とにかく、そこが、とびきり、瞑想しやすいところなので、ただ、通ったのです。
ただただ、自分が透明になれるところだったと、感じられたので。
そのコミューンの書籍コーナーに、
和尚タロットが、おいてありました。
あるとき、1枚ひいてみました。
そのカードが、この千代能のカードでした。。。
その時、私は、千代能の物語を知らなかったのですが、
なぜか、はっとしました。
いま、私は、なぜ、インドにいるのだろう?
なにを、私はしているのだろう?
私は、いったい、誰?
その瞬間、なにかが(だれかが?)、風が吹くように、
私のそばを、通り過ぎていったような気がしました・・・。
★
それから数カ月後、この青い表紙の美しい本、
「無水無月」に出会いました。
人生という「旅」の途中で出会った
ひとつの、答えでした。
これ以上も、これ以下もなく、でも、、、
それでも、旅は、まだまだ、続いていきます。。。
人間の脳が、忘れっぽくできていなかったら、
私は、もう、旅をやめてしまいたくなってたかもしれません。
でも、幸いなことに、私は、なんども、忘れてしまい、
そして、また、ときどき、ふと、思い出します。
いまは、水の中に映った月もまた、
風流だなぁと・・・、その形のうつろう様を
映像を眺めるように、味わう余裕もでてきました。
とはいえ、忙しいときは、
それが、水に映ったものにすぎないことも
忘れてしまって、あれやこれやと、心を悩ませます。
それが、迷いであることがわかっていても、
桶の箍をはずすのは、やはり、おそろしいもので、
自分ひとりの力では、なかなかできない弱さもあります。
そんなオバカなことを繰り返しながらも、
こうやって、ふと、大切なことを思い出させてくれるのですから、
ほんとうに、ありがたいことだと、しみじみと、感じます。
わたしの手の中は 空っぽ・・・。
神様、どうか、私に、空っぽの手で触れることを
忘れないように、させてください。。。。。
思えば、ほんとうに、いとしい、いとしい、セッションルームで、あの部屋たちとともにすごした10年の歳月は、いま振り返るには、あまりにもその質量が重すぎて、いまは、そっと、駆け抜けていきたい気がします。
(御客様のことは、あまり日記には書かないようにしてるのですが、セッション内容にはかかわりのないことなので、少しだけ書かせてくださいね。。。)
さて、先週、ふと、御二人ずれのお客様がこられました。
御一人の方は、先に受けてくださってる方を御待ちになられる間、1時間あまり、カウンセリングルームで待機してくださっています。
御一人目の方が終わり、私が先にその部屋に戻ってみると、待っておられる方が、目に涙をうかべて、感動しておられます。あら、何がおこったのかしら?と、聞けば、私の本棚の中にある、一冊の本を、なにげにその方は手にして、最初の章を待ち時間の間に、読み上げてしまったそうなのです。。。
読んでいると、涙がとまらなくなり、まるで、この本を読むために、私のところにやってきたんではないかと思うほど、その方の心に触れたそうなのです。。。
その本の、その章は、私にとっても、大切な文章で何度も読み返したものでした。
でも、ここしばらく、忙しくて、忘れてしまってたのです。
私は、その方に、とても感謝しました。
私に、その本のことを、思い出させてくださって、ありがとう。。。
私は、その方によって、私を見つけてもらったような心地よさを感じました。
(セッションでは、多かれ少なかれ、giver と receiver との間に、シンクロニシティが起こっています。
触れることが、同時に、触れられることであるのと同様に、癒し手は、同時に、癒される側でもあります。
このダイナミズムが、ヒーリングの場をやさしく進化させていくのでしょう。。。
この10年のあいだ、なんども、おこってきたことです)
★
さて、その人が、涙ながらに、私に思い出させせてくれた、その本の題名は、
「無水無月 no water no moon」
インドの聖者、和尚の、禅について語った、エッセイ集で、その表題である、「無水無月」は、
千代能という(たしか、鎌倉時代の)、日本の尼僧が、
あるとき、突然、光明を得たときの心境を詠んだ和歌がテーマです。
以下、青い文字は、引用文です。
尼僧、千代能は何年も学んでいたが、光明を得られずにいた。
ある晩、千代能は水をいっぱいにはった古い桶を運んでいた。
突然、しめてあった箍(タガ)がもろともにはずれ、
桶はばらばらになって落ちた。
いっきに水が流れ、月の反映が消えた - 千代能は光明を得た。
彼女は、この句を詠んだ。
あれこれと どうにか桶をとめてきた。
もろい竹が切れないように。
突然 底がぬけた。
水たまらねば月もやどらず - わたしの手の中は空っぽ
とにかくにたくみし桶の底ぬけて 水たまらねば 月もやどらず
この物語についての、和尚の解説は、とても美しいものです。
これは、私にとって、予期せず、ふっと、出会ってしまった、ひとつの答えでした。
あまりのさりげなさに、肩すかしを覚えるほどに・・・。
2002年の2月、1か月間、インドにいました。
2週間の瞑想リトリートに参加するためです。
それは、いま思い出しても、至極の美しい時空でした。
あれが永遠であれば、どれほどに素晴らしいか、
いえ、あれそのものが、永遠であったのだから、
それが、長く続くとか、続かないとかを望むこともなかったのでしょう。
そのあとに、プーナの和尚コミュ-ンに1週間ほど、おりました。
毎日、和尚の廟である、「ラオツー(老子)」に通い、瞑想してました。
私はサニヤシンではないので、和尚への敬意と礼拝という意味ではなく、
とにかく、そこが、とびきり、瞑想しやすいところなので、ただ、通ったのです。
ただただ、自分が透明になれるところだったと、感じられたので。
そのコミューンの書籍コーナーに、
和尚タロットが、おいてありました。
あるとき、1枚ひいてみました。
そのカードが、この千代能のカードでした。。。
その時、私は、千代能の物語を知らなかったのですが、
なぜか、はっとしました。
いま、私は、なぜ、インドにいるのだろう?
なにを、私はしているのだろう?
私は、いったい、誰?
その瞬間、なにかが(だれかが?)、風が吹くように、
私のそばを、通り過ぎていったような気がしました・・・。
★
それから数カ月後、この青い表紙の美しい本、
「無水無月」に出会いました。
人生という「旅」の途中で出会った
ひとつの、答えでした。
これ以上も、これ以下もなく、でも、、、
それでも、旅は、まだまだ、続いていきます。。。
人間の脳が、忘れっぽくできていなかったら、
私は、もう、旅をやめてしまいたくなってたかもしれません。
でも、幸いなことに、私は、なんども、忘れてしまい、
そして、また、ときどき、ふと、思い出します。
いまは、水の中に映った月もまた、
風流だなぁと・・・、その形のうつろう様を
映像を眺めるように、味わう余裕もでてきました。
とはいえ、忙しいときは、
それが、水に映ったものにすぎないことも
忘れてしまって、あれやこれやと、心を悩ませます。
それが、迷いであることがわかっていても、
桶の箍をはずすのは、やはり、おそろしいもので、
自分ひとりの力では、なかなかできない弱さもあります。
そんなオバカなことを繰り返しながらも、
こうやって、ふと、大切なことを思い出させてくれるのですから、
ほんとうに、ありがたいことだと、しみじみと、感じます。
わたしの手の中は 空っぽ・・・。
神様、どうか、私に、空っぽの手で触れることを
忘れないように、させてください。。。。。
by reiko-koyago
| 2010-02-09 01:00

