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26年もたったのか・・・と思う。
昨年が四半世紀が過ぎたということだった。
忘れられないし、忘れてはならないと思うけど、
どこかでもう、いいだろう、、、次に行こうと思いたい自分もいてて、そういや、毎年そう思っている気がする。

昨年は、ウェブマガジン「コ2」で連載している「セルフタッチング入門ーコロナの時代のタッチケアー」で初めて、震災体験のことを少し書いたけど、あそこが、今の私の施術活動や、タッチケア支援センターの原点となっていること。それは違いようがない事実だと思う。

もっと言えば、あの時以前の記憶と、震災以降の記憶があまりにも次元が異なりすぎている。よく震災で言われていることだけど、あの時、私も一度死に、そして、生まれ変わってその後があるのだと、あるいは、脳神経回路がいったん書き換えられたのではないかと思えるほど、それほど、あのたった15秒の大地の揺れの衝撃は大きかった。

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あの時、「死」が自分にとてつもなく近く、そして、あまりにも遠かった。
15秒という地球の揺れは、生と死という大きな明暗を分けた。
私は生きていて、周囲の何名かの人は死んでしまった。それは、私も死んでいたかもしれないということでもあり、同時に、それは、「死」というものは、まったく予感も、予想もなく、ある時突然やってくるんだということを心底知った。

瓦礫の下で生き埋めになった隣人に対して、ほぼ、なにもなすすべがなかったというこの非力さへの痛感。お向かえの家の奥様は、すぐに救出されたけど、即死だった。隣のブロックの家は、何軒かが全壊で、瓦礫の下に人がいることがわかっていた。もう、息たえておられるのか、極寒の中、痛さと苦しみの中で救助を待っているのか、わからなかった。呼んでも声が返ってこなかったから、たぶん、前者だろうが、わからない。その後、死亡は確認される。。。

生きている自分と、瓦礫の中の死が、実際の距離にするとあまりにも近いのに、あまりにも遠い。人間は、こういう時、自分の感覚を遮断し、想像力の扉も閉じてしまうのかもしれない。そうやって生き延びるのだろう。。。

ある時突然、予期せぬ時に、結局のところ、誰にも看取られず”一人で死ぬ”(それは、瓦礫の下であったり、交通事故の壊れた車の中であったり)ことは、私は、もう十分に知っているし、それは起こりうることである。。。

最近、「死」についてを考える読書会(「死に行く人々と共にある」ジョアン・ハリファックス老師著)に久しぶりに参加して、自分の死ついて思いを馳せたとき、少しだけそのことを自分の中で受け入れはじめることができた。もしかすると、今生きているのは、そういう自分の最後の時に、それでも、自分の死の尊厳を受容することの準備をしているのではないか?と。そう思うと、26年前の、目の前の隣人の死と、自分の中の距離が、ほんと少しだけだけど近づいたような気がした。


26年前。凍り付いたものを残しながらではあったけど、それでも、不思議なことに、生まれてはじめて、これほど生きていることを実感したことはなかったということも、白状しなければならない。実際、こういう証言は、多くの被災者が語っている。瓦礫のわが街を観て、隣人の死と出会い、これほど、内側から血肉がわき立ち、生きる力がみなぎったことはなかったと。同時に、感情を凍り付かせたままの人も大勢おられた。人は一人一人違い、温度差は確かにあったけど。

火事場の馬鹿力であったり、カラ元気だったのかもしれないけれど、なんとか復興し、前よりもいい街を作ってやるんだという気持ちでしか、死者を弔うことにならないのではないか? そういう想いを持った人は、少なくはなかったと思う。そして、駆け抜ける人々がいた。被災地復興の中で。その、前よりもいい街をつくるという意図は、建物というハードではなく、人の気持ちというソフトに向けられていった。

「声をかける」「手をさしのべる」「ケアする」「サポートする」「つながる」「一緒のご飯を食べる、お酒を飲む」「焚火を囲む」「お祭りをする」・・・等。あの頃は、何もマニュアルがなかったので、ただただ、手探りだったのだけど、自然発生的におこった「炊き出し」や支援物資の整理から、ごく自然と、人と人とがつながることが、とてつもなく重要であることを、みんなが実感した。実際、それは、簡単なことではなかったけど、とにかく、何も持たない庶民ができることは、それしかないし、実際、それが一番重要なことであったことは、後の世の研究が明らかにしてくれている。



「災害ユートピア -何故そのとき特別な共同体が立ち上がるのか」
・・・という、本がある。

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かなり前の本だけど、ようやく手にした。
ちょっと、買うのに抵抗があったけど、先日、You-tubeで観た奥田知志さん(NPO法人抱樸)と、社会学者の宮台真司さんの対談「社会はなぜ必要なのか?」を観て、やっぱり読もうと思った。
1906年のサンフランシスコ大地震や、米国の様々な災害後に起きたことを検証している。

英文タイトルは

A Paradise Built in Hell
~The Extraordinary Communities That Arise in Disaster~

家に届いて、手にとって、450ページを超える大著なので、読む気力が少し萎えた^^。
読まなくても知っている。
私は「災害ユートピア」を確かに見たのだから。

阪神淡路大震災の直後、それは、確かに各地に自然発生的に立ち上がっていた。
おそらくは、震災直後の2~3か月の間までだろうが。
もちろん、それは、痛みと苦痛の伴うものだったのだけど。


まだ、ちゃんと読めてはいないけど、それでもこの本にある、エピローグと、プロローグにある言葉

「あなたは誰ですか? わたしは誰なのか?」

という言葉にはぐっと惹かれた。

まさに、自然災害という天地がもたらす悲劇が、人間に問いかける気づきとは、それなのだ。
一人一人の実存が、丸裸にされてしまう。
立場も、肩書きも、職業も超えて、止まってしまった、壊滅的な日常の中で、何者でもない”わたし”に立ち返る(しかない状況に追い込まれる)

そして、その時、多くの人が内的な衝動としてとった行動の中で注目すべきことは、垣根を超えて”助け合う”ということだったのだ。この内発的な行動が、災害ユートピアという奇跡を創り出したのだろう・・・。

今は、かなり進化したとは思うけど、阪神淡路大震災の問は、災害救援に対する政府や行政のマニュアルがほとんどないのに等しかった。
あの時ほど、「国家」や「政府」や「行政」というものが遠くに感じられたことは無かった。エリートも支配者もなかった。

そのかわり「地域」というものが、立ち上がった。
あるいは、それを「社会」と呼んでもいいのだろう。

それは、生きるために必要なものを(水や食料、衣類や寝具、そして、声掛けややさしさ)、必要な人に、ごく自然と水が流れるように、制度の規制も、精神的な遠慮もなく届けていく、自然な循環だったのだと思う。そして、その自然な循環をせき止めるものの多さにも閉口したけれど。

その仕組みが持続可能な形で継続できれば、社会として成り立つ。阪神淡路大震災の時は、残念ながら、仕組みとまではいかなったけど、その精神性という種子は、蒔かれたのではないか?さて?

大きな火災で壊滅的な被害をうけた長田区が有名だけど、東灘区や灘区にも、出現していた。
私がかかわった、西宮、須磨区、そして、兵庫区にも。

それは、確かにあった。
私は見た。そして、かかわった。
ユートピアというような、お気楽なものではなかったけど。


私がかかったのは、すでに長年、地域活動を続けて地元の小規模障害者作業所が中心だった。残念ながら事務所は地震で壊滅した。メンバーの家も倒壊し棲む家を失った。そして、1人は命を失った。地域で生きる、自立生活障害者の運動で、失ったものはあまりにも大きかった。失意のどん底で、立ち上がれない気持ちになっても当然だろう・・・。でも、ほったらかしにしていたら、どんどん場所は失われていく。火事場の馬鹿力を出すしか他に道はないだろう。。。

しかし、彼らが長年気づいていた全国のネットワークは強大で、一挙に支援物資も支援者も集まってきた。あっというまに、被災地障害者支援センターが立ち上がり、その活動は、今なお全国の災害復興支援として継続している。コンセプトは、障害者の障害者による障害者の支援活動。支援の現場を「障害者」の視点で見直すこと。あの時、こういう言葉が高らかにかけられた。被災地では、みんな、障害者なんだ!と。

あるいは、他のエリアでは、行動力と決断力、そして、リーダーシップある人間力のある人が、ごく自然とリーダーとなって支援活動を継続していた。私は、当時、まだ予備校の日本史講師だったけど、中世の、戦国時代の少し前あたりの、いわゆる「国衆」と呼ばれた、地元の実力者たちの台頭を思い出した。もちろん、その「国衆」は、自分たちの事業を起こすとかではなく、純粋な利他行為として「助け合い」や「救援」を実践したことだ。今から思うと凄いことだ。震災2年目からかかわった、須磨区の「下中島公園北自治会”しんげんち”」のことは、いつか、伝えないといけないと毎年思う。しかし、代表のTさんはすでにがんで他界されてしまった。ここのことを覚えている人はどれほどいるのか?

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須磨区、下中島公園北自治会、上空写真。
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周囲に、数か所の大規模仮設住宅があり、週に一回食事会が開催された。ほとんどが高齢者の方。
孤食を避けるために支援者や地域の方々が協力しあった。
今から思うと、子ども食堂や地域食堂の元型のよう思う。



ただ、問題は、、、それは、ほんとうに余裕のない、あらゆる意味で、へとへとなギリギリなところで駆けていくので、最初の数か月はどうにか火事場の馬鹿力で駆けていけるのだけど、1年もすると、様々な意味で限界が訪れる。制度の助が必要となってくる。1998年に、NPO法人が制度化し、寄付や助成金での持続可能な活動へと移行していった。

火事場の馬鹿力で、必死になって駆け抜けていかなくても、震災になったら、よりシステマティックな支援活動が迅速に起きて、被災者の回復がスピーディになる・・・と、そういう日がくると良いと思ってはいたものの、実際には10年20年たっても、それほどスムーズにはいかないものらしい。

そして、なぜか、そのようにサポートシステムが制度化されてしまった後には、こうした「災害ユートピア」は、起こらなかったらしい。

これには驚いたけれど、なんだか、わかるような気がする。
悲劇と混乱と葛藤の中で立ち上がった人間の力は、やはり強い。
そして、それは「何者でもないわたし」が立ち上がるからだと思う。

今は、立場や役職がないと、支援活動もやりにくい時代になってしまったようである。


だからといって、もう一度、阪神淡路大震災のようなことが起こってほしいとは、微塵とも思ってはいない、当然ながら。
あのようなことは、二度と起こってほしくないし、特に、大阪や東京等、人口の密集したところでおきたときの被害は、計り知れない。また、原発等もそうだろう。災害に、もう一度起こってもらうわけにはいかないのである(もちろん、不可避的に起こるものだけど)。

今は、新しい形で、新しい社会を作り上げていく時なのだろう。
その時に、この、震災でおきたことを、もう少し見つめてもらいたいと思うことがある。
(ただ、あの時、リーダーシップを発揮した方々の多くは、すでに亡くなってしまったのだけど。。。しかも、まだネット媒体がない時代なので、資料もほとんど残っていない・・・)



それに、あの時の傷跡はいまなお大きく、ご家族を失った方の悲しみはいまだに癒えてはいない。
やはり、あの時には、心のケアや、グリーフケア、そして、トラウマケアという方法が、まだ無かった。
だから、被災者自身も、自分たちに、心のケアが必要であるという発想を持ちえなかったのかもしれない。
悲しみは、一人一人の心の中で異なるし、何年たっても悲しみは変わらないこともあれば、時間とともに溶けていった方もいる。


2年前に、ある神戸の高齢者向けのイベントで、ハンドマッサージのブースを出していた時。
1人の90歳近いご高齢の女性が、私のハンドマッサージを受けてくださった。

お孫さんが、今度出産されて、嬉しいとのこと。
そのお孫さんは、孫なのだけど、自分の娘のようなものなの。。。と。。。語り始める。
ハンドマッサージにつきものの、ナラティブが始まっていった。

その方の息子さんご夫婦が、阪神淡路大震災で亡くなられて、その娘さん達は、生き残った。
そのおばあさんは、その後、その娘さん達を引き取り、育てた。
だから、孫だけど、娘のようだという。

まさか、イベントのハンドマッサージブースで、被災者の方が、家族を亡くされたご体験を語られるとは思ってはいなかった(東日本大震災ではとても多かったけど)ので、ちょっと驚いたけど、ここは、神戸なのだから、当然、阪神淡路大震災でのご遺族と出会う可能性はある。

息子さんご夫婦が、倒壊家屋で亡くなられたお話は、やはり辛かった。おばぁさんの目にも涙がにじんでいた。
でも、その後、孫娘さんが成長し、その子が生まれたというお話と、さらに、そのおばぁさんは、もう90歳近くになられていたけど、東日本大震災以降、遺族として、東北に定期的に通い、東北の震災で家族を失った方との交流をずっと行っているとのことでした。その交流が、その方にとって、ほんとうに大きな生きがいらしく、ハンドマッサージをしながら、その方の瞳の奥の輝きが、今でも忘れられない。なんだか、とてつもない”循環”が起きているように感じたのだ。

その時、不思議なのだけど、
私の中での震災も、何かが終わったような気がした。
その方が、終わらせてくださったかのように。

5年連続出店していた、その神戸の高齢者向けのイベントも、コロナのために、昨年は中止。
心配なのは、そのおばぁさん、今は、コロナで簡単には東北に行ったり来たりはできないだろう・・・。
お元気であればいいのだけど。。。


とはいえ、昨年も、また、西宮の自宅が全壊でご両親を失った方と出会ってしまった。
そう、、、震災は、やはり続いている。
凍り付いた悲しみは、悲しいだけで、ずっと変わらないこともある。
(それは、震災死に限らずだろうけど)

人の悲しみは、一人一人違うし、
人の死も、一人一人異なる。

そして、もう一度、静かに問いかける。
それは、すべての自然災害(地球)が問いかけてくる問いなのだろう。


あなたは誰ですか? 
わたしは誰なのか?








# by reiko-koyago | 2021-01-17 13:51
聖林寺の十一面観音様のことを、
書きとめておきたいと思いました。
息をのむ美しさ。
なぜ、今まで、出会えなかったのか?
2020年12月22日に出会えたのか?
(さすが土星と木星が水瓶座のゼロ度で出会うグレート・コンジャンクションの日だわ)
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(購入した写真から)

聖林寺の十一面観音菩薩像といえば、天平文化(奈良時代)の代表的な仏像として教科書にも載っていて、写真も、何度も見ています。でも、実際に拝観したことはありませんでした。聖林寺って、奈良であるということ以外、どこにあるのかも知らなかった。場所は、奈良県桜井市の南。創建は、藤原鎌足の息子。鎌足の菩提を祀るお寺のようで、談山神社の神宮寺。

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車のナビがなかったら、たどり着けそうにないような場所にあるので、この美しい観音様を観に来られる方も少ないでしょう。。。

忘れ去られたような大和盆地の南の丘。でも、そこからの見晴らしは美しく、三輪山と箸墓(卑弥呼の古墳ではないか?といわれている古墳)が並んで望める絶景です。     

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とはいえ、ほんとうに小さなお寺で、そこの本堂には、巨大な石でできたお地蔵さんがおられて、子宝と安産に恵まれるというので有名だそうです。この石のお地蔵さんを観に来られる方も、多いのでしょう。十一面観音像は、現在は、大悲閣という観音堂が建立されて、保存のため、薄暗い光の中で、その全身を拝見することができます。秘仏であり続けたからでしょう。奈良時代に作成された当時に塗られた、金箔もよく残っています。おそらくは、全身が金色に輝いていたのでしょう。

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いや、それ以上に、この流れるような形の美しさ。繊細な右手の指。ふっくらとしたお顔。

あとで、読み返しましたが、白洲正子が「十一面観音巡礼」の中で

それは今この世に生まれ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのである。

‥と、表現したのも、伝わってきます。
いったい、このような美しい仏像を、誰が、どのような想いで作成されたのか?
おそらくは、三輪山の、大神神社の神宮寺のために、

しかし、第一級の国宝、天平文化の乾漆像の流れをくむ、聖林寺の十一面観音菩薩が、このような小さなお寺にひっそりと祀られているなんて。。。大学受験日本史の文化史では教えるものの、気にはなりつつ、一度も調べることもなく、30年がたってしまっていたのです。

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ところが、ついに、拝観できました。
なんとなく、、、ふっと思いついて。どうして、今なのか?

奈良三輪山の、大神(おおみわ)神社さんにお詣りにいくときの、ついででした。
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いつもは、長谷寺の十一面観音さんのところにいくのだけど、ふと、そうだと思いつき。。それも、なんとなくだったのです。

大神神社さんは、我が家にとってご縁が深く、父の事業が行き詰まったときに、知人が母にお詣りを勧めたところ、境内の杉の霊木で白蛇様に遭遇、、、たちまち父の事業の問題は解決したという、いわゆる霊験あらたかすぎて、怖いぐらいの体験をしていらいのご縁です(こういう理由では、私は神社にお詣りはしないのですが、でも、我が家と大神神社さんとのご縁はそう・・・) 最近は、姪っ子がよく車でお詣りにいくので、12月22日の冬至明け、木星と土星が水瓶座に入る日に、久しぶりに大神神社さんにお詣りしました。

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(母がかつて白蛇様と出会った杉の御神木)

この大神神社さん、大和国で一番古い一宮で、そして、神武天皇が最初に大和王権をスタートした地ということで、とても重要な神社さんなんですが、関東の方は、あまりご存じないので、びっくり。やっぱり、奈良といえば、東大寺と春日大社のようですが、関西人にとっては、やはり大神神社さんでしょう。。。

御神体は三輪山で、大物主(おおものぬし)神を祀っているといわれています。
大物主神とは、大国主神の和魂とも。あるいは事代主神とも同一視されていますが、ようするに出雲系の神様です。
もともと、大和の国は、大物主神が支配していたところ、神武が、熊野から大和に入り、娘婿として迎え入れられた。これが、神武東征の物語だとも言われています。なので、大物主神のことを、饒速日(二ギハヤヒ)であるという説も有力です。大物主(饒速日)神がオールド・カマ―で、神武がニューカマーという位置づけですね。

神武天皇が、最初に大和王朝をたてたのは、この三輪山のふもとで。王朝という視点でみると、まさに、日本の政治のはじまりのはじまりの地。
万葉集や、日本書紀・古事記にも、とてもよく出てくる地です。この大神神社のことを、書き始めたら、きりがないので、今日はこれぐらいに。卑弥呼の墓ではないかといわれる、箸墓もあり、また、弥生時代の遺跡、唐子・鍵(巻向)遺跡も広がっています。神武以前から、奈良の盆地には王国が広がっていたのでしょう。

大神神社にお詣りしたら、必ず、お詣りするのが、荒魂であり、三輪山登拝の入り口のある、狭井神社。
水と薬と癒しの神様でもあります。  

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姪のお友達が中学受験なので、大神神社の摂社である受験祈願の神様、久延彦(クエヒコ)社にいくことに。狭井神社から、南に下ると小高い展望台を通過して訪れることができます。ここから眺める一の鳥居と奈良盆地の美しいこと。

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久延彦社は裏側から上がり、お詣りしたあとは、正面の鳥居に。そこを、右側にいくと「若宮社」があります。

この若宮社は、何度か訪れましたが、ちょっと不思議です。神社なのに、建物が仏教寺院のお堂のようなのです。
そして、境内の中が、がらんとしている。とても、不思議な感じがしたのですが、あまりに殺風景な境内なので、写真も撮らずです。。。

若宮とは、大物主命の息子(あるいは、子孫)の、大直禰子(オオタタネコ)のこと。



崇神天皇の御代、人々の半数が亡くなるほどの、疫病が流行りました。天皇の夢の中に、大物主命があらわれて、自分の子孫に三輪山を祀らせなさい、そうすれば、世は穏やかになるだろうと伝えたとか。そこで、大直禰子(オオタタネコ)が大神神社の初代の宮司となったという話が、記紀に残っています。若宮社は、その大田田根子を祀る神社。

・・なんですが、、、実は、奈良時代の神仏習合の時代に、その同じ場所に大神神社の神宮司が建立されていたそうです。その名前も、大神(おおみわ)寺。
しかし、その後、廃れてしまい、鎌倉時代の奈良仏教の復興の際、西大寺の叡尊が、復興したとのこと。名前は、大御輪寺(だいごりんじ)と変わりました。

このあたりの流れは、こちらのブログに詳しいです。

少なくとも、歴史資料によると、鎌倉時代からは、現在は聖林寺さんにおられる十一面観音様は、大御輪寺(すなわち、若宮社)のご本尊であったのは確実だったそうです。おそらく、もっともっと前から。

この仏像は、奈良時代のもの。
ならば、おそらくは、奈良時代のはじめから、ずっと大神神社の神宮司の本尊であり続けたのでしょうか?

仏教が日本に伝来して以来、それまで、木々や山、川や滝などの自然崇拝であった人々の信仰が、仏像という人の形への崇敬へと変わっていきました。そして、奈良時代の鎮護国家の時代、疫病や戦乱で乱れ、混乱した国を安らかにするために、仏教を神道よりも優位な位置に置いた上での、神仏習合がはじまりました。仏だけではなく、神々をも、人の形で表現していきました。

大神神社の神様は、十一面観音様の姿で表現されたのです。
三輪山の東の、長谷寺が、十一面観音様で、西国三十三か所の観音霊場のはじまりとされるのですから、わからないでもありません。
そして、この大御輪寺(大神寺)の本尊であり続けた1000年以上の間、この日本の仏像芸術の最高峰の美しさを放ちながらも、ずっと秘仏であり続けたそうです。

では、なぜ、聖林寺に?

それは、明治になってからの、神仏分離令によるもので、廃仏毀釈の嵐が、奈良の寺院にも襲いかかりました。

大神神社の神宮司である大御輪寺は、廃寺に。
寺は壊され、仏像たちは、放り出されたといいます。


明治時代、日本の美術品や仏教美術を調査していた、フェノロサと岡倉天心が、この美しい十一面観音像と出会い、あまりの美しさに感嘆したといいます。あの美しい観音様と出会った時の二人の感動を想像すると、震えます。「この界隈にどれほどの素封家(大金持ち)がいるか知らないが、この仏様一体にとうてい及ぶものではない」と、語ったと記録されています。

フェノロサ達の発見によって、廃仏毀釈によって千年の秘仏を解かれ、破壊はまぬがれ、そして、この忘れられたかのような古寺、三輪山を北側にあおぐ小高い丘の上の聖林寺へとあずけられ、現在に至っています。(でも、ある意味、守られていたのでしょうね)

その封印が解かれ、放たれた際に、フェノロサが、驚愕し、後に、和辻哲郎の「古寺巡礼」でも、この聖林寺の十一面観音像のことは、美しい筆致で描かれています。

「流るる如く自由な、さうして均衡を失はない、快いリズムを投げかけてゐる」(和辻巡礼『古寺巡礼』)

それを読んだ、白洲正子が、「十一面観音巡礼」の中で、冒頭で、この観音像のことを、感嘆とともに著しています。「十一面観音巡礼」は、白洲正子とこの聖林寺の十一面観音菩薩との出会いから、始まっていったのです(確かに、愛蔵版の表紙もこちらの観音様です)

現在も、天平文化を代表する、国宝の仏像として、教科書にも載り続けているにもかかわらず、この十一面観音像と出会われた方は少ないのではないでしょうか。。。いやぁ、、私も、ほんと、今迄何をしていたのか? なぜ、こんなに時間がかかったのか。。。

この十一面観音様こそ三輪山の女神
大神神社の本地の神。

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2020年の12月22日という日に、出会えれたのも不思議な流れです。

そして、2021年の5月に、聖林寺の十一面観音様は、はじめて、奈良を離れ、東京の国立博物館で、そのお姿をお見せくださるそうです(現地にいって、初めて知りました。なので、奈良での拝観は5月初旬までです)

わお!東京の皆様、もうすぐ、聖林寺の十一面観音様が、いらっしゃいますよ~。


しかし、歴史を紐解けば、かつて、崇神天皇の御代に、疫病が流行り、大物主神が天皇の夢の中に立ち、我が子孫に大物主神をまつらせよと命じ、大神神社がはじまり、そして、疫病は収まったといいます。

また、奈良時代、聖武天皇の時代、疫病と戦乱をおさめるために、鎮護国家のため、仏教に祈願し、東大寺の大仏を建立した。。そして、同じ時期(おそらく、奈良時代後期?奈良時代は女帝が多かったのですが)、大神神社の神宮寺である大神神社(後の大御輪寺、現在の若宮社)に、黄金色の十一面観音像が本尊としてまつられるようになった・・・しかも、秘仏として千年以上も。

廃仏毀釈がおこらなければ、今なお秘仏であり続けたかもしれません。
その、聖林寺の十一面観音菩薩立像が、はじめて、来年、東京に行かれるのですよ!

なんだかドキドキします^^。



帰りの車では、葛城山を越えて、奈良盆地から、東大阪へ。
夕日の光が、大阪中をピンク色に染めていました。

こちらは、淀川に沈む落日。


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# by reiko-koyago | 2020-12-24 21:02
3年前の秋の、facebookへの投稿です。
レイライン通信にも記録しますね。
ジュディス・ウィーバー先生の「周産期心理学プロセスワーク」という一週間のワークショップに参加するために、鎌倉へ。
その時に、巡った鎌倉の古刹、東慶寺と、海蔵寺をめぐった時、鎌倉一人旅、2日間の記録です。
縁切寺・中世の女性の出家者、千代野、水月観音、底抜けの井、洞窟・・・。
まるで、タイムスリップしながら意識の胎動を潜り抜けるような、不思議な旅だったので、ブログにも記録しておきますね。
(この旅の直後に、周産期心理学ワークショップでは、まさに子宮の中で過ごし、胎動を潜り抜けるような時間を過ごしたのを思い出します)
(2020年11月2日)

***
1日目
鎌倉、東慶寺へ。

ふとFBでこちらの墓所に西田幾多郎と鈴木大拙のお墓があることを知り訪れました。
いずれも金沢出身の知の巨人。去年の今頃は鈴木大拙記念館を訪れ、10年ほど昔に曽祖母の苗字のルーツを追ってくれた金沢の友人が、電話帳を頼りに「宇ノ気」という町を見つけ、そこに西田幾多郎哲学館が忽然と建ってたので、彼女のドライブで初めて訪問しました。とても素晴らしい哲学館なので、気に入って、その後二度ほど訪れました。
鈴木大拙は、周産期心理学の先生でもあり、センサリーアウェネスの師匠でもあるジュディ・ウィーバー先生が、金澤の鈴木大拙の記念館に行きたいとおっしゃるので(ジュディス先生、昔、最晩年の鈴木大拙ご自身に会われたことがあるということで)、金沢にお連れして、1泊二日の旅をしたのがこの2年前。

今回、この鎌倉後で、西田幾多郎と、鈴木大拙、お二人の誕生の地と終焉の地が結ばれていきました。

それにしても、なぜ、東慶寺なのか?
尼寺ではないですか、あの駆け込み寺で有名な、、。と不思議だったのですが、色々と紐解けてきました。ちょっと長くなりますが自分の記録メモとして。完全に歴女モードの独り言ですが^_^。

3年前の鎌倉の思い出 -東慶寺の水月観音、海蔵寺の底抜けの井ー_a0020162_10262253.jpg
封建時代、女性からの離縁は原則不可。
唯一、東慶寺のみが女性が駆け込み3年近く滞在すれば離縁がかなうシェルター。最近、映画もありましたね
どうやら鎌倉時代の創建当初から、女性の側に立つ慈悲深いお寺で有名だったようですが、開祖の覚山尼は北条時宗の妻で、あの元寇のときの鎌倉執権。元寇対応に追われながら宋の高僧、無学祖元に夫婦で帰依。覚山尼も時宗死後は尼寺東慶寺に入りますが、息子もまた執権として君臨しますので大変な権力をもつ女性ではありましたが、この覚山尼、実は安達家の出身でもありました。
安達というのは鎌倉時代の最有力御家人のひとつ。ところが、この時期、霜月騒動というきな臭い事件が起こります。すなわちこの安達家が北条執権の部下の管領に滅ぼされてしまうのです。以後、鎌倉御家人達は不満を募らせ、結果、新田義貞や足利尊氏という鎌倉幕府内部の御家人により滅ぼされるのですが、ま、それはおいといて。
東慶寺の開山、覚山尼はこの実家である安達氏の滅亡をまのあたりにするのですが、彼女の姪にあたる安達千代野もまた霜月騒動の後、無学祖元のもとで出家します。
3年前の鎌倉の思い出 -東慶寺の水月観音、海蔵寺の底抜けの井ー_a0020162_10263043.jpg
千代野が光明を得たという「底脱(そこぬけ)の井」。東慶寺のすぐそばの海蔵寺にあるという、、これはまた次回に(このブログの後半にあります。2日目の旅)
さらにその後、後醍醐天皇の皇女、非業の死をとげた護良親王の姉にあたる五世用堂尼が父と弟の菩提を弔うために就任。ここから松ヶ丘御所と呼ばれるようになったらしい。
さらに時代が進み豊臣秀頼の娘が20世に就任。秀頼の息子はすべて殺害されてますから、豊臣の流れの女性というのは驚きです。この方が天秀尼。
開祖 覚山尼 滅んだ安達氏の娘
五世 用堂尼 追いやられた後醍醐天皇の娘
二十世 天秀尼 滅んだ豊臣氏の娘
まぁ、お寺に出家させられるのはそういうパターンが多いとはいえ、これはかなり強烈な布陣。
で、どうやらこの方たちが、中世から近世にかけて追いやられた女性たちを救済するため、意地とプライドをかけて女性たちを守り抜く、相当な力を尽くしたようなのです。

この豊臣秀頼の娘の、天秀尼が、江戸時代初期に、徳川家康の許しをえて、この東慶寺を女性の離縁が許される「駆け込み寺」「縁切り寺」として、機能された人なのです。

墓所に行くとこのお三方の女性のお墓が並んでありました。今回はまるでここに引き寄せられたかのようにも。


そのすぐ隣の一番大きなお墓は、明治になり尼寺としての駆け込み寺の役割を終えた東慶寺に住職として着任した釈宗演のお墓。東慶寺中興開山。
この釈宗演が素晴らしい禅僧でいらしたようで、ここに鈴木大拙ら、哲学や文学、財界人が集まり、近代日本の精神性の拠点のひとつとなったというのが流れのようです。
墓所には、西田幾多郎、鈴木大拙、和辻哲郎、小林秀雄、岩波茂雄、高見順、堀田善衛と知の巨人たちが勢揃い。崖と木々がふっくらと子宮のように包みこむ静寂な聖地でした。ここはおそらくは女神の聖地。
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西田幾多郎のお墓
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鈴木大拙のお墓

女性達が守り切った駆け込み寺が、近代の知の巨人たちの魂の安らぐ地に。
日本史に潜む意気のような、いっぽん筋の無入った精神性、慈悲にまつわる歴史に思いをはせます。
明日も鎌倉古寺めぐりです。


2日目
再び、東慶寺へ。

東慶寺さんの水月観音像が素晴らしいというアドバイスをいただきいてもたってもいられず再び東慶寺へ。朝一番に予約をいれたら9時半の拝観がかないました。拝観は1日2回、要予約。
これは再度訪れて正解でした。
もとは着色された白衣観音様だったそうですが、白衣観音といえば龍の背に乗るもの。こちらの観音様は泰然と岩の上に寛ぎ水に浮かぶ月を見つめる。
鎌倉彫刻の中でも最高峰でしょう、このBEINGと慈悲の表現。
(写真は、水月観音様を教えてくださった、浅田誠一さんからお借りしたものです^_^)

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鎌倉後期の作ということですからご初代覚心尼から始まり代々御守りされ、様々ないわくつきの女性たちの祈りを見守ってこられたのか。
額には「水月」と、鈴木大拙の書が。
当然、大拙もこの水月観音の前で座禅したはず。この裏手に鈴木大拙の書斎があったということで松ヶ岡文庫として今も大拙の蔵書が収められているそうです。
水と月。
ニューエイジ時代のマスターの一人である和尚は後年、禅に傾倒しその著も多数。その中でわたしにとり特別な女性は
NO WATER
NO MOON
タイトルにもなった禅の逸話の中の千代能という鎌倉時代の禅尼。
あるとき井戸から汲んだ水をはった桶に映る月に見とれていたら、瞬間、桶のタガが外れて水が流れ、たちまち月が消えたその時、千代能は悟りを開いたという。
その井戸を底脱(そこぬけ)の井戸)といい、東慶寺から20分ほどのところにある海蔵寺の門前に今もその井戸があるらしく、行ってきました。いくと、ほんとうに、実際にあったので、びっくりしました!実在していたなんて!

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底ぬけの井に自分のからだを映してみる。


元の句は

千代能がいだく桶の底脱けて
水たまらねば 月もやどらじ


和尚の解釈はさらに美しく
あれこれと
どうにか桶をとめてきた。
もろい竹が切れないように。
突然、底がぬけた。
水たまらねば
月もやどらず。
私の手はからっぽ

最後の「私の手は空っぽ」は和尚の解釈だけど、ここがまた良くて。これを読んでいらい、触れる手は空っぽでありたいと思いました。
水は感情やマインドだろう。
消そうと思って消えるものではない。
そこに美しい月が輝いている。
うっとりと眺め、見入ってしまう。
突然、たがが切れる。
誰も予想できない瞬間。
たちまち水は溢れ月は消える。
水たまらねば月もやどらず。
(わたしの手は空っぽ)
なぜインドの和尚が鎌倉時代の尼僧の話を知っているのか?と不思議でしたが、これは今となっては断言できます。鈴木大拙の英文で書かれた著書からでしょう。鈴木大拙は、晩年、この東慶寺に書斎を置いていたらしく、おそらくは、毎日、水月観音の像を前にして、座禅をくんでいたのでしょう。。。
そこに書かれていたかどうかわからないのですが、和尚いわく、千代能は若い修行僧と共に修行するために自らの顔を焼いたそうです。そして誰よりも一心不乱に修行に励んだ。それほどに彼女は悟りを得たかった。
だけどそれはあるとき突然、まったく予期せぬ形で起こった、、。
水たまらねば
月もやどらじ

千代能が生きた時代も鎌倉後期。
美しい水月観音様とこの話はつながるのでしょうか?
海蔵寺は東慶寺と同じ今は臨済禅のお寺ですが、それ以前は弘法大師ゆかりの真言宗のお寺だったそうです。
巨岩、洞窟、そして湧き水の井戸。
かなり特異なお寺で、名刹です。

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静寂の中に岩の内側から沁みいだす水の音が聴こえてきます。
洞窟は、かつてはここで僧侶がひたすらに座禅をくんでいたのではないでしょうか。
奥の院には、洞窟に16の井戸が並ぶ「十六井戸」があります。清水が湧き出て不思議な空間で非常に神秘的。。曼荼羅を表しているとも言われています。
岩に水(源氏の氏神は石清水八幡宮ですしね)

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こうなると五行では金(財)を生み出すとされています。さらなる奥の院、銭洗い弁財天へ。
海蔵寺から山越えして歩いて30分ぐらいでしょうか、、奥へ、奥へと導かれます。

行ってみると、やはり財運の神社さんなんで参拝客に溢れていました。洞窟の中の湧き水で銭を洗うと金運アップ。もちろんやってみました。お金を洗うと、すがすがしい気持ちになれるものですね。

この銭洗い弁財天そのものが、大きな洞窟の中にあります。
ここは、まるで龍の巣のようなところ。
あるいは胎内。
実に落ち着き安まります。


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観光客もあまり気にならずお茶屋で疲れた脚をいやしました。
いやはや、相当に歩きました^^。
そして鎌倉駅まであるいて由比ヶ浜のお宿で休憩。
さぁ、いまからジュディス先生のソマティク周産期心理学、四日間。
もう胎内めぐりしてきた心地ですが、これからは自分の内側へ。

(2017年 11月に記した旅の記録です)


# by reiko-koyago | 2020-11-01 00:19
姉と姪に誘われて、彼女たちの愛犬とともに琵琶湖の旅に。
10月の後半、紅葉前の琵琶湖は青い空と湖面のきらめきが美しく、快適なドライブとなりました。
結果的に、ぐるっと琵琶湖を一周することに。
おかげで、久しぶりに湖北、高月の渡岸寺(向源寺)の国宝、十一面観音様を拝観することができました。

世界でもっとも美しい観音像。

高校生の時に初めて拝観して以来、個人的にはそう思っています。
この十一面観音さんにお会いするたび、一体だれが、どのような思いで、これほどに美しい観音像を創り出したのだろうか?と震えてしまう。もしかしたら、人が創り出したのではないのではないか? 見るたびに、そう感じるのです。

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十一面観音さんの撮影は禁止です。これは以前に購入した絵葉書より。
でも、このお像の美しさは、実物を見ないと伝わらないかも?



今回は、新しい発見がありました。

場所は、JR北陸線、長浜から数駅北にある高月という駅から徒歩10分ほどなのですが、今回は車で訪れることができました。
駐車場から出ると、すぐ隣のお茶屋さんから、1人のおじいさんがでてこられました。
そして、ふと、私達に「教えたいものがあるから、ぜひいらっしゃい」と声かけられたのです。

ほんの数十歩ですが、畦道を歩いていくと、視界が開かれました。
おじさんは、指をさして、私達に教えてくれました。

あの山は、小谷山。
かつて、浅井長政の小谷城のあった小高い山。

水の観音 -湖北、渡岸寺の十一面観音像と戦国時代ー_a0020162_01324036.jpeg

あ、小谷城、こんなにすぐ近くだったんだ!
浅井長政は、戦国武将で、織田信長の妹のお市の方が嫁がれて、3人の女の子が生まれました。
茶々・初・江(ごう)
3人姉妹の長女の茶々は、後に豊臣秀吉の側室に。淀君。息子の豊臣秀頼は大阪の陣で、母の淀君とともに自刃。豊臣の滅亡を象徴する女性。
一方、三女の江は、徳川家康の息子で後に徳川二代将軍となった徳川秀忠の正妻に。長男の家光は徳川時代を盤石にした後継者でもあります。
浅井氏の血筋は、お市から、3人の娘を通じて、豊臣と徳川に。そして、徳川将軍へと受け継がれていったのでしすが、その浅井家の居城、小谷城が、十一面観音さんの信仰の厚いこの地域だったのです。

とすれば、もしかすると、浅井長政も、お市の方も、そして、茶々・初・江の三人の娘たちも、この十一面観音様をお詣りしたのかもしれません。。。

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渡岸寺のお堂。拝観はこの奥で。


が、城主、浅井長政は、姉川の戦いに続き、織田信長に攻め落とされ、最後には小谷城で浅井長政は自刃。そして落城。
その後、この地を受け継いだ織田家臣の柴田勝家のもとに、お市の方は3人の娘をつれて再婚しますが、その柴田勝家も、豊臣軍によって賤ケ岳(しずがだけ)の戦いで滅ぼされます。この時、お市の方も共に落城の炎の中自刃。姉川も、小谷城も、賤ケ岳も、ほぼ同じ湖北のエリア。
この十一面観音信仰の浸透するエリアです。

戦国の時代、戦火の中で、この渡岸寺の十一面観音像は、村人の手により助け出され、深い穴の中に埋められて、戦火での消失をまぬがれて、保存され、今日に至ります。もちろん、戦火は村々を襲い、多くの村民たちも、そして、兵士も命を落とした戦国の時代。。。この湖北は、戦国の戦乱の中心舞台でもありました。


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(お寺の中に、十一面観音像が埋められていた地に、石碑が立てられています)


この地には、琵琶湖の中に浮かぶ美しい島、竹生島の弁財天信仰もあります。

弁財天信仰と、観音信仰。
おそらくは、同じルーツをもつ女神信仰だったのでしょう。
母なる湖、琵琶湖に祀られる、水の女神。

渡岸寺の十一面観音さんの左手には、聖水の入った壺がもたれています。
その指の美しいこと。。。

この精妙な美しさが、破損することなく、守られてきたことは、奇跡としかいいようがなのし、この仏像の存在そのものが、奇跡のようなのです(ご覧になれば、わかると思います)

伝承によれば、奈良時代の聖武天皇のころ、疫病が流行り、北陸の白山信仰を開いた泰澄(たいちょう)上人に疫病退散を祈願。十一面観音像を彫らせたとありますが。。。この仏像の様式は、ヒノキの一木造り、翻波式(仏像の衣類などのひだが波のように翻っている様式)。典型的な、平安前期の、密教彫刻の時代の様式なので、おそらく実際に彫られたのは平安前期なのでしょう。すっと伸びた、立ち姿は、どこか西洋的な美しさもあります。おそらくは、大陸か半島の渡来系の影響も。。。

白山信仰そのものが、十一面観音信仰なので、北陸から湖北にかけて白山信仰が影響し、この地に十一面観音信仰が広がったと言います。(もとは、日本海を超えた大陸のシャーマニズムが源流とも言われていますが・・・)渡岸寺のこの観音像以外にも、多くの十一面観音像が、この湖北には残されています。そして、その多くが、戦国時代の戦乱の中、村人によって守られてきていました。(他の十一面観音様は、半分焼けていたり、焼けた地蔵と共にまつられたり、、、湖北の観音様と戦国の業火は切っても切れないのが伝わります)

今は、県庁所在地の大津市から一番遠く、ひなびたエリアに見えますが、もともとは、越前・美濃・尾張へと続く、交通の要地。
商業も盛んで、豊臣秀吉が最初に築城した長浜城も栄えました。織田信長が安土城を建てたのも、湖北のすぐ下のエリア。
黒田官兵衛の黒田氏も、もとは湖北の木ノ本がルーツです。あの、関ヶ原とも近い・・・。

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渡岸寺のすぐ前。町の中には、清流が流れています。




しかし、湖北の魅力は、やはり、伝承と信仰にあるのでしょう。
夢のような神話の世界が、湖北には数多く残されています。

今回は、湖北、琵琶湖の最北端の岸辺をドライブし、そこからのぞむ琵琶湖の湖面の美しさには圧倒されました。

そこに浮かぶ、竹生島。
琵琶湖の湖面のさざ波と反射する光は精妙で、凛とした銀色です。
その微細なバイブレーションは、魂に慈悲深くしみ込む”観音”の故郷。

(余談ですが、西国三十三か所観音霊場の発端となった、奈良の長谷寺の観音様は、近江の国、湖西の高島から流れてきた大木によって彫られたと伝承にあります)

この、渡岸寺の十一面観音像を拝観したあとに、湖北からみた琵琶湖を観ると、あの、完璧な美のバランスの中で立ち尽くす、十一面観音像が著している土地のエネルギーが伝わってきそうで、一瞬震えました。あまりにも精妙すぎて、真・善・美を超えているのです。

お堂では、360度から、お像を拝観することができます。
おそらく、今なお、訪れる人は多くはないでしょうから、どうぞ、ゆっくりお詣りしてください。
(数年前に、はじめて、東京の国立博物館での拝観がかなったそうです)

そもそも、疫病をしずめるために、白山信仰から、十一面観音像が盛んに彫られたということですので、今のコロナの時代にこそ、湖北の十一面観音さんを、お詣りする良い時期なのかもしれません。


次は、この湖北にもう少し滞在してみたいと思います。
できれば、余呉湖や、菅浦集落にも、訪れてみたいものです。

一生に一度は、是非、この観音像に出会ってほしい。
これまで、何度も、このお寺に友人達を案内し、十一面観音像様に出会ってもらってきました。
(ある方は、涙が止まらなかったとおっしゃっていました)

今回は、姉と姪。
さて、何を感じたのか^^。


追記

小谷城、浅井長政のことで、思い出しました。
もう一つ。浅井氏の血脈が受け継がれていった女性がいることを。
大阪の陣で自刃した、豊臣秀頼の娘の一人が、出家して尼であるならばということで、徳川によって殺されずに生き延びた女性がいます。

天秀尼。

豊臣秀頼の側室の娘で、正室の千姫(徳川秀忠とお江の間に産まれた娘)の養女となった女性です。
父の秀頼は、茶々の息子なので、浅井長政のひ孫になります。
養母の千姫は、お江の娘なので、こちらも浅井長政の流れ。

天秀尼の母も出家前の名も不明ですが、出家することで命が許され、鎌倉の東慶寺に入り、第20代の住持となります。
そして、徳川家康より、東慶寺を、夫との離縁を臨む女性の「縁切り寺」とすることの許しを得たといいます。

有名な、縁切り寺の尼寺、東慶寺の誕生です。

このお寺の本尊で有名な観音像が「水月観音」。

水と月。

こちらは、鎌倉時代の仏像彫刻です。

水の上にやわらかに泰然と座る美しい観音像です。

この水月観音と、湖北の十一面観音像。

2つの水の観音像が、湖北の浅井とつながるのも、不思議です。

東慶寺の奥には、墓所が広がり、天秀尼の墓もそこにあります。

そして、近代日本の知の巨人、西田幾多郎や、鈴木大拙、小林秀雄、和辻哲郎達のお墓も、この東慶寺に。

湖北から、いきなり、鎌倉に飛んでしまいましたね^^。



さらに、湖北から、湖西へとドライブをし、前から訪れたかった白鬚神社さんへ。

近江国で、最も古いと言われる神社です。

ご祭神は、一応、猿田彦さん。

琵琶湖に浮かぶ鳥居は、東を向いているので、おそらくは太陽神?

水と太陽

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白鬚神社の鳥居


夕暮れの中、琵琶湖と空の色が刻一刻と移り変わる美しさに見とれながら、帰りました。


コロナの時期の秋。
期せずして、琵琶湖を一周し、湖北に思いを寄せる良い旅となりました。


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旅の初日。西国観音霊場のひとつ、長命寺のすぐ北側の琵琶湖畔での景色。










# by reiko-koyago | 2020-10-31 01:30
2020年の夏
タロット・カード・リーディングの
オンライン・セッションを始めます!

Online Tarot Card Healing Session
by Reiko Nakagawa
Soumya
オンライン・タロット・カード・セッション ~ナラティブと象徴の癒し~_a0020162_00082119.jpg

78 枚の絵が語りかけるスピリチュアル・ジャーニー
太古の叡智が、象徴と神話を通じて潜在意識に働きかける
タロット・カード・リーディング・セッションは、
新しい時代の、ナラティブ(物語を語る)・セラピー
として注目されています。

オンライン(zoom)でのセッションのため
ご自宅で受けていただけます。
お気軽にお問合せください。


タロット・リーダー
中川れい子(Soumya)

オンライン・タロット・カード・セッション ~ナラティブと象徴の癒し~_a0020162_00093530.jpg


< session  >

A 月のコース  タロット・リーディング・ナラティブ・セラピー : 40分  3000円

B 地球のコース   A(タロット)+セルフタッチング・ヒーリング : 75分  5000円
*遠隔でのセルフタッチング(自分で自分に触れる)を
中心とする、呼吸と身体バランス、リラクセーションと
マインドフルネスを誘導する、全身の統合のヒーリング・ワークです。
タロットで浮上したエネルギーをこの地上の身体へと繋ぎとめます。
(Integrated Selftouching Healing)

*上記の料金30分延長ごとに、千円の延長料金をいただきます。
*状況とご要望に応じて、カウンセリング&コーチングセッションに切り替えることも可能です。
*セッション内でのお話は、すべて守秘義務を守ります。
*3~4回、連続してのセッションもお勧めです。


お申込みフォーム


*8月13日~17日は、お盆休みをいただきます。
*ご希望の日程を第一希望から第三希望までお書きください。
*コースのA かBか、お知らせください。当日、Aを受けたあとに
*こちらから、ご連絡を送らせていただき、詳細をお知らせいたします。
*お支払いは、セッション終了後、ゆうちょ振込か、Paypalでのお振込となります。
 お振込みの場合➡ ゆうちょ銀行 四一八支店 普通 5090700
 三井住友銀行➡立花支店 普通 1475240
 Paypalの場合➡ここをクリック!

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MESSAGE

エサレン®ボディワークを中心に
これまで、オーラソーマや
クリスタルヒーリング、西洋占星術
そして、タロットカードリーディングを
セッションに取り入れてきましたが、
20年たった今でも、継続しているのは
エサレン®ボディワークと
タロットカードのみ。

タロットの潜在意識を開く力には
今なお、引き込まれて
私自身の人生も切り開いてくれました。

それはおそらく、
物語と物語が交差することで
夢の力が活性化されるのでしょう。
あなたの中の秘められた力です。

カードは、過去・現在・未来
潜在意識と顕在意識
そして、あなたの、今・ここの
地点を物語はじめます。

このセッションでは、占いというよりも
言葉や思考を超えた象徴の力 
シンボルや神話・夢・・・等
物語を語る癒し ナラティブ・セラピーを
中心にお届けします。
(結果的に、それは未来へのメッセージとなります)

火地風水の四大元素、数秘や占星術。
古代の叡智とつながった物語や神話、夢の力が、
私たちの煮詰まりすぎた心の状態を、
優しく解きほぐすでしょう。

言葉にならない思いをゆるめ
過去・現在・未来のご自身の流れを理解し
未来にむけての新たな扉を開きます。

ヒーリングセッションでは、
遠隔でからだの状態・呼吸・グランディングを
セルフタッチングで調整しながら
リラクセーションとマインドフルネスの両方を促します。
body & mind & spirit の微細なバランスを調え、
あなた自身へと回帰する、統合を促します。

2020年
コロナと猛暑の夏を乗り越えるために
お気軽にお問合せください。
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タロット・ワーカー

中川れい子
Holly name は、Soumya

エサレン®ボディワーク認定プラクティショナー施術歴21年。
その間、ほとんどすべてのクライアントさんに
タロット・カード・リーディングのセッションを
おこなわせていただきました。
タロット・カード歴も22年となります。

タロットを学んだはじまりは、
浅田誠一先生、宏林先生(旧ベテルさん)から学び
マンガラ先生、フィリップ・トーマス先生からも教えていただきました。
そこから、ずっと続けてきて、今は私なりのスタイルとなっています。

これまで、ボディワークセッションを中心に
クリスタルヒーリングや
オーラソーマ、西洋占星術、コーチングなど
様々なワークを取り入れてきましたが、
私にとって、もっとも相性が良かったのは
不思議なことに、タロットカード。

タロットと出会って22年。
22といえば、ダイアルカナの数字。
私の中にしみこんだ、78枚の叡智の力を通して
みなさんの、今を切り開くお手伝いをしたいと思います。

また、ヒーリングワークは、
現在、様々な地域の機関でご案内している
セルフタッチングを中心に
グランディング・呼吸・リラクセーション・マインドフルネス等
様々な角度から、心身のエネルギーを調整し、統合します。

コロナの夏で、
なにか、もやもやする方。いらいらする方。
どうしたらいいのか、わからない方。
少し気持ちを切り替えるきっかけにしていただけたらと思います。
あるいは、
タロットや、セルフタッチングに興味のある方等にもおすすめです。

お気軽にどうぞ。



こころとからだのセラピールーム アマナスペース 代表

エサレン®ボディワークのセッションは、こちらをどうぞ。
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# by reiko-koyago | 2020-08-08 00:15

エサレン®ボディワーカーでNPO法人タッチケア支援センター代表理事の中川れい子(旧こやごれーこ)の個人ブログです。2003年から、エサレンやソマティクス、ボディワークや癒し、聖地巡礼、社会問題の徒然を気ままに綴り続けています。Soumyaは”月の女神”をあらわす私のホーリーネイム。


by reiko-koyago