26年もたったのか・・・と思う。
昨年が四半世紀が過ぎたということだった。
忘れられないし、忘れてはならないと思うけど、
どこかでもう、いいだろう、、、次に行こうと思いたい自分もいてて、そういや、毎年そう思っている気がする。
もっと言えば、あの時以前の記憶と、震災以降の記憶があまりにも次元が異なりすぎている。よく震災で言われていることだけど、あの時、私も一度死に、そして、生まれ変わってその後があるのだと、あるいは、脳神経回路がいったん書き換えられたのではないかと思えるほど、それほど、あのたった15秒の大地の揺れの衝撃は大きかった。
あの時、「死」が自分にとてつもなく近く、そして、あまりにも遠かった。
15秒という地球の揺れは、生と死という大きな明暗を分けた。
私は生きていて、周囲の何名かの人は死んでしまった。それは、私も死んでいたかもしれないということでもあり、同時に、それは、「死」というものは、まったく予感も、予想もなく、ある時突然やってくるんだということを心底知った。
瓦礫の下で生き埋めになった隣人に対して、ほぼ、なにもなすすべがなかったというこの非力さへの痛感。お向かえの家の奥様は、すぐに救出されたけど、即死だった。隣のブロックの家は、何軒かが全壊で、瓦礫の下に人がいることがわかっていた。もう、息たえておられるのか、極寒の中、痛さと苦しみの中で救助を待っているのか、わからなかった。呼んでも声が返ってこなかったから、たぶん、前者だろうが、わからない。その後、死亡は確認される。。。
生きている自分と、瓦礫の中の死が、実際の距離にするとあまりにも近いのに、あまりにも遠い。人間は、こういう時、自分の感覚を遮断し、想像力の扉も閉じてしまうのかもしれない。そうやって生き延びるのだろう。。。
ある時突然、予期せぬ時に、結局のところ、誰にも看取られず”一人で死ぬ”(それは、瓦礫の下であったり、交通事故の壊れた車の中であったり)ことは、私は、もう十分に知っているし、それは起こりうることである。。。
最近、「死」についてを考える読書会(「死に行く人々と共にある」ジョアン・ハリファックス老師著)に久しぶりに参加して、自分の死ついて思いを馳せたとき、少しだけそのことを自分の中で受け入れはじめることができた。もしかすると、今生きているのは、そういう自分の最後の時に、それでも、自分の死の尊厳を受容することの準備をしているのではないか?と。そう思うと、26年前の、目の前の隣人の死と、自分の中の距離が、ほんと少しだけだけど近づいたような気がした。
☆
26年前。凍り付いたものを残しながらではあったけど、それでも、不思議なことに、生まれてはじめて、これほど生きていることを実感したことはなかったということも、白状しなければならない。実際、こういう証言は、多くの被災者が語っている。瓦礫のわが街を観て、隣人の死と出会い、これほど、内側から血肉がわき立ち、生きる力がみなぎったことはなかったと。同時に、感情を凍り付かせたままの人も大勢おられた。人は一人一人違い、温度差は確かにあったけど。
火事場の馬鹿力であったり、カラ元気だったのかもしれないけれど、なんとか復興し、前よりもいい街を作ってやるんだという気持ちでしか、死者を弔うことにならないのではないか? そういう想いを持った人は、少なくはなかったと思う。そして、駆け抜ける人々がいた。被災地復興の中で。その、前よりもいい街をつくるという意図は、建物というハードではなく、人の気持ちというソフトに向けられていった。
「声をかける」「手をさしのべる」「ケアする」「サポートする」「つながる」「一緒のご飯を食べる、お酒を飲む」「焚火を囲む」「お祭りをする」・・・等。あの頃は、何もマニュアルがなかったので、ただただ、手探りだったのだけど、自然発生的におこった「炊き出し」や支援物資の整理から、ごく自然と、人と人とがつながることが、とてつもなく重要であることを、みんなが実感した。実際、それは、簡単なことではなかったけど、とにかく、何も持たない庶民ができることは、それしかないし、実際、それが一番重要なことであったことは、後の世の研究が明らかにしてくれている。
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「災害ユートピア -何故そのとき特別な共同体が立ち上がるのか」
・・・という、本がある。
かなり前の本だけど、ようやく手にした。
ちょっと、買うのに抵抗があったけど、先日、You-tubeで観た奥田知志さん(NPO法人抱樸)と、社会学者の宮台真司さんの
対談「社会はなぜ必要なのか?」を観て、やっぱり読もうと思った。
1906年のサンフランシスコ大地震や、米国の様々な災害後に起きたことを検証している。
英文タイトルは
A Paradise Built in Hell
~The Extraordinary Communities That Arise in Disaster~
家に届いて、手にとって、450ページを超える大著なので、読む気力が少し萎えた^^。
読まなくても知っている。
私は「災害ユートピア」を確かに見たのだから。
阪神淡路大震災の直後、それは、確かに各地に自然発生的に立ち上がっていた。
おそらくは、震災直後の2~3か月の間までだろうが。
もちろん、それは、痛みと苦痛の伴うものだったのだけど。
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まだ、ちゃんと読めてはいないけど、それでもこの本にある、エピローグと、プロローグにある言葉
「あなたは誰ですか? わたしは誰なのか?」
という言葉にはぐっと惹かれた。
まさに、自然災害という天地がもたらす悲劇が、人間に問いかける気づきとは、それなのだ。
一人一人の実存が、丸裸にされてしまう。
立場も、肩書きも、職業も超えて、止まってしまった、壊滅的な日常の中で、何者でもない”わたし”に立ち返る(しかない状況に追い込まれる)
そして、その時、多くの人が内的な衝動としてとった行動の中で注目すべきことは、垣根を超えて”助け合う”ということだったのだ。この内発的な行動が、災害ユートピアという奇跡を創り出したのだろう・・・。
今は、かなり進化したとは思うけど、阪神淡路大震災の問は、災害救援に対する政府や行政のマニュアルがほとんどないのに等しかった。
あの時ほど、「国家」や「政府」や「行政」というものが遠くに感じられたことは無かった。エリートも支配者もなかった。
そのかわり「地域」というものが、立ち上がった。
あるいは、それを「社会」と呼んでもいいのだろう。
それは、生きるために必要なものを(水や食料、衣類や寝具、そして、声掛けややさしさ)、必要な人に、ごく自然と水が流れるように、制度の規制も、精神的な遠慮もなく届けていく、自然な循環だったのだと思う。そして、その自然な循環をせき止めるものの多さにも閉口したけれど。
その仕組みが持続可能な形で継続できれば、社会として成り立つ。阪神淡路大震災の時は、残念ながら、仕組みとまではいかなったけど、その精神性という種子は、蒔かれたのではないか?さて?
大きな火災で壊滅的な被害をうけた長田区が有名だけど、東灘区や灘区にも、出現していた。
私がかかわった、西宮、須磨区、そして、兵庫区にも。
それは、確かにあった。
私は見た。そして、かかわった。
ユートピアというような、お気楽なものではなかったけど。
☆
私がかかったのは、すでに長年、地域活動を続けて地元の小規模障害者作業所が中心だった。残念ながら事務所は地震で壊滅した。メンバーの家も倒壊し棲む家を失った。そして、1人は命を失った。地域で生きる、自立生活障害者の運動で、失ったものはあまりにも大きかった。失意のどん底で、立ち上がれない気持ちになっても当然だろう・・・。でも、ほったらかしにしていたら、どんどん場所は失われていく。火事場の馬鹿力を出すしか他に道はないだろう。。。
しかし、彼らが長年気づいていた全国のネットワークは強大で、一挙に支援物資も支援者も集まってきた。あっというまに、被災地障害者支援センターが立ち上がり、その活動は、今なお全国の災害復興支援として継続している。コンセプトは、障害者の障害者による障害者の支援活動。支援の現場を「障害者」の視点で見直すこと。あの時、こういう言葉が高らかにかけられた。被災地では、みんな、障害者なんだ!と。
あるいは、他のエリアでは、行動力と決断力、そして、リーダーシップある人間力のある人が、ごく自然とリーダーとなって支援活動を継続していた。私は、当時、まだ予備校の日本史講師だったけど、中世の、戦国時代の少し前あたりの、いわゆる「国衆」と呼ばれた、地元の実力者たちの台頭を思い出した。もちろん、その「国衆」は、自分たちの事業を起こすとかではなく、純粋な利他行為として「助け合い」や「救援」を実践したことだ。今から思うと凄いことだ。震災2年目からかかわった、須磨区の「下中島公園北自治会”しんげんち”」のことは、いつか、伝えないといけないと毎年思う。しかし、代表のTさんはすでにがんで他界されてしまった。ここのことを覚えている人はどれほどいるのか?
須磨区、下中島公園北自治会、上空写真。
周囲に、数か所の大規模仮設住宅があり、週に一回食事会が開催された。ほとんどが高齢者の方。
孤食を避けるために支援者や地域の方々が協力しあった。
今から思うと、子ども食堂や地域食堂の元型のよう思う。
ただ、問題は、、、それは、ほんとうに余裕のない、あらゆる意味で、へとへとなギリギリなところで駆けていくので、最初の数か月はどうにか火事場の馬鹿力で駆けていけるのだけど、1年もすると、様々な意味で限界が訪れる。制度の助が必要となってくる。1998年に、NPO法人が制度化し、寄付や助成金での持続可能な活動へと移行していった。
火事場の馬鹿力で、必死になって駆け抜けていかなくても、震災になったら、よりシステマティックな支援活動が迅速に起きて、被災者の回復がスピーディになる・・・と、そういう日がくると良いと思ってはいたものの、実際には10年20年たっても、それほどスムーズにはいかないものらしい。
そして、なぜか、そのようにサポートシステムが制度化されてしまった後には、こうした「災害ユートピア」は、起こらなかったらしい。
これには驚いたけれど、なんだか、わかるような気がする。
悲劇と混乱と葛藤の中で立ち上がった人間の力は、やはり強い。
そして、それは「何者でもないわたし」が立ち上がるからだと思う。
今は、立場や役職がないと、支援活動もやりにくい時代になってしまったようである。
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だからといって、もう一度、阪神淡路大震災のようなことが起こってほしいとは、微塵とも思ってはいない、当然ながら。
あのようなことは、二度と起こってほしくないし、特に、大阪や東京等、人口の密集したところでおきたときの被害は、計り知れない。また、原発等もそうだろう。災害に、もう一度起こってもらうわけにはいかないのである(もちろん、不可避的に起こるものだけど)。
今は、新しい形で、新しい社会を作り上げていく時なのだろう。
その時に、この、震災でおきたことを、もう少し見つめてもらいたいと思うことがある。
(ただ、あの時、リーダーシップを発揮した方々の多くは、すでに亡くなってしまったのだけど。。。しかも、まだネット媒体がない時代なので、資料もほとんど残っていない・・・)
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それに、あの時の傷跡はいまなお大きく、ご家族を失った方の悲しみはいまだに癒えてはいない。
やはり、あの時には、心のケアや、グリーフケア、そして、トラウマケアという方法が、まだ無かった。
だから、被災者自身も、自分たちに、心のケアが必要であるという発想を持ちえなかったのかもしれない。
悲しみは、一人一人の心の中で異なるし、何年たっても悲しみは変わらないこともあれば、時間とともに溶けていった方もいる。
☆
2年前に、ある神戸の高齢者向けのイベントで、ハンドマッサージのブースを出していた時。
1人の90歳近いご高齢の女性が、私のハンドマッサージを受けてくださった。
お孫さんが、今度出産されて、嬉しいとのこと。
そのお孫さんは、孫なのだけど、自分の娘のようなものなの。。。と。。。語り始める。
ハンドマッサージにつきものの、ナラティブが始まっていった。
その方の息子さんご夫婦が、阪神淡路大震災で亡くなられて、その娘さん達は、生き残った。
そのおばあさんは、その後、その娘さん達を引き取り、育てた。
だから、孫だけど、娘のようだという。
まさか、イベントのハンドマッサージブースで、被災者の方が、家族を亡くされたご体験を語られるとは思ってはいなかった(東日本大震災ではとても多かったけど)ので、ちょっと驚いたけど、ここは、神戸なのだから、当然、阪神淡路大震災でのご遺族と出会う可能性はある。
息子さんご夫婦が、倒壊家屋で亡くなられたお話は、やはり辛かった。おばぁさんの目にも涙がにじんでいた。
でも、その後、孫娘さんが成長し、その子が生まれたというお話と、さらに、そのおばぁさんは、もう90歳近くになられていたけど、東日本大震災以降、遺族として、東北に定期的に通い、東北の震災で家族を失った方との交流をずっと行っているとのことでした。その交流が、その方にとって、ほんとうに大きな生きがいらしく、ハンドマッサージをしながら、その方の瞳の奥の輝きが、今でも忘れられない。なんだか、とてつもない”循環”が起きているように感じたのだ。
その時、不思議なのだけど、
私の中での震災も、何かが終わったような気がした。
その方が、終わらせてくださったかのように。
5年連続出店していた、その神戸の高齢者向けのイベントも、コロナのために、昨年は中止。
心配なのは、そのおばぁさん、今は、コロナで簡単には東北に行ったり来たりはできないだろう・・・。
お元気であればいいのだけど。。。
とはいえ、昨年も、また、西宮の自宅が全壊でご両親を失った方と出会ってしまった。
そう、、、震災は、やはり続いている。
凍り付いた悲しみは、悲しいだけで、ずっと変わらないこともある。
(それは、震災死に限らずだろうけど)
人の悲しみは、一人一人違うし、
人の死も、一人一人異なる。
そして、もう一度、静かに問いかける。
それは、すべての自然災害(地球)が問いかけてくる問いなのだろう。
あなたは誰ですか?
わたしは誰なのか?